1964年のル・マンを走るP.ヒル/B.マクラーレンのGT40 10号車。4番グリッドからスタートするが、朝を迎える前にリタイアしてしまった。

映画『フォードvsフェラーリ』で描かれているのは1966年のル・マン24時間だが、フォードは1964年からGT40でのル・マン出場をはじめている。

チームの母体となったのは、イギリスに設立したフォードのレース専門の子会社であるFAV(フォード・アドヴァンスド・ヴィークルズ)であった。

打倒フェラーリを目指し、64年のル・マンに乗りこんだフォード勢。のちのマシンと比べるとかなりボディ形状が異なっている。

この年の4月に完成したばかりで、たった1レース(しかもリタイア)しか経験していない状態にもかかわらず、彼らは6月の本戦に3台のGT40を用意。10号車にアメリカ人で初めてF1ワールドチャンピオンに輝いたフィル・ヒルと、クーパーのF1ドライバーだったブルース・マクラーレン、11号車にそれまでフェラーリのドライバーを務め、後にホンダF1の初勝利を達成するリッチー・ギンサーとF1やスポーツカーで実績のあるマスティン・グレゴリー(65年にフェラーリでル・マン優勝)、12号車にリチャード・アトウッド(70年にポルシェでル・マン優勝)とベテランのジョー・シュレッサーという、豪華なドライバーを擁して参戦した。

予選ではギンサーの11号車がフェラーリに次ぐ2番グリッドを確保し、決勝でも2周目にトップへ浮上し独走体勢を築きあげた。また10号車のヒルも3分49秒2というファステストラップを記録し、フェラーリに対してそのポテンシャルの高さを見せつけた。

しかしながら、夜明けを迎える前に3台が相次いでメカニカルトラブルでリタイア。優勝はフェラーリに奪われてしまう。

1965年のル・マンに出場したK.マイルズ/B.マクラーレン組のGT40マークII。序盤をリードするも、ウイークポイントのギヤボックスにトラブルが発生してリタイア。

続く65年、フォードは物量作戦を敢行。ワークスであるシェルビー・アメリカンから7リッターの427ユニットを搭載したニューマシンGT40マークIIが2台、FAVの他にセミワークス格のロブ・ウォーカー、スクーデリア・フィリピネッティ、フォード・フランスから従来型の4.2リッターのGT40が1台ずつと、合計6台のGT40が出場することとなった。

このうち本命はケン・マイルズとブルース・マクラーレンがドライブする1号車、フィル・ヒルと2年前に19歳(当時の最年少記録)でF1デビューを果たしたクリス・エイモンがドライブする2号車を擁したシェルビーの2台で、その期待に応えた2号車がポールポジションを獲得。決勝ではスタートから1号車、2号車の順で1-2体制を固めるものの、2台ともギヤボックスのトラブルでリタイア。結局6台のGT40がトラブルによりレース開始後7時間以内に全滅するという惨敗となってしまったが、ヒルの2号車(なんとレース直前に完成したばかりだった!)が前年を12秒も上回るファステストラップを記録したうえ、340km/hという最高速度を記録したのは、翌年に向けての明るい材料といえた。

そして運命の66年。フォードはシェルビーから3台、セミワークス格のホルマン-ムーディーから3台、アラン・マンから2台、さらにプライベーターから5台の計13台という体制でル・マンに挑んだ。

対するフェラーリもニューマシン330P3を用意し待ち構えていたのだが、労働争議の影響で開発、熟成が遅れた上にフェラーリ内部のお家騒動でシーズン中にエースのジョン・サーティースが離脱するなど、盤石とはいえない状態であった。

レースの方はゴール後のいざこざがあったものの、映画で描かれているとおりフォードの1-2-3フィニッシュで終了した。しかしその裏では、トップ3以外のGT40が全てリタイアしており、フォードとしても余裕の勝利というわけではなかった。

映画『フォードvsフェラーリ』のハイライトとなる66年ル・マンのゴールシーン。ル・マンの大舞台で演出された3台同時ゴールは世界中にインパクトを与えた。

67年、フェラーリは開幕戦のデイトナ24時間で1-2-3フィニッシュを達成し、フォードの地元で見事なリベンジを果たす。それを受けフォードはボディワークを中心に改良を加えた新型のGT40マークIVを開発する。

迎えた6月のル・マン、フォードは4台のマークIV(うち2台はシェルビー)を含む7台のワークスカーを投入。フェラーリも同じ7台のワークスカーを投入する全面対決の様相となった。

レースは両陣営にクラッシュやトラブルが続出する荒れた展開となったが、唯一トラブルなく序盤からトップを快走したシェルビー・チームのダン・ガーニー/A.J.フォイト組のマークIVが2位のフェラーリに5周差をつける独走で優勝。ル・マン史上初の総走行距離5000km突破という大記録も打ち立てた。

この結果に満足したフォードは、翌年からレギュレーションが変わることもあり、ワークス活動の終了を宣言する。

面目を潰されたフェラーリは67年、フォードのお膝元であるデイトナ24時間で1-2-3フィニッシュを果たして仕返し。両者の対決はさらにヒートアップする。
フォードは67年シーズン用にボディワークなど全面改良を施したGT40マークIVを開発。ル・マンでガーニー/フォイト組の1号車が圧勝を飾る。
67年ル・マンの表彰式。記念のモエ・エ・シャンドンの巨大ボトルを渡されたガーニーは、興奮のあまり観客に向け振りかけた。これがシャンパン・ファイトの始まりと言われる。

でもこれでGT40の挑戦は終わらなかった。

次なる主役に躍り出るのはフォードがFAVのマネージャーとして起用したジョン・ワイアだ。GT40の開発とレース運営の拠点として設立されたFAVであったが、プロジェクトが進むにつれ本社との対立が激しくなり、66年で解散の憂き目にあってしまう。

これを期にワイアは独立し、JWオートモーティブ・エンジニアリングを設立。ガルフ石油のスポンサードを受け、GT40をベースにしたオリジナルマシンの開発や、レース運営などを手がけていく。

JWは、GT40マークIVが優勝した67年のル・マンにオリジナルマシン、ミラージュM1を2台持ち込んだが、準備不足もありあっけなくリタイアしてしまった。そこで68年は変更されたレギュレーションを逆手に取り、GT40をグループ4(生産台数50台、5リッター以下)マシンとして登録し選手権にフル参戦すると、徐々に調子をあげ、新たなライバルとなったポルシェとチャンピオン争いを繰り広げる。

その天王山となったのが、五月革命の影響で9月に延期されたル・マンだ。このレースに33台のGT40をエントリーしたJWは、4台のワークスカーを持ち込んだポルシェを相手にするが、ペドロ・ロドリゲス/ルシアン・ビアンキ組が序盤から首位を独走。見事優勝してシリーズタイトルまで獲得してしまうのである。

翌69年になると、さすがにGT40の旧態化が否めなくなってきたが、JWは抜群の耐久性を武器に2台のGT40をル・マンにエントリーさせた。

こうして迎えた決勝レースはル・マン史に残る1戦となった。

ガルフ石油の援助を受けたJWチームは、68年、69年のル・マンをGT40で連覇(写真は69年)する。ちなみに優勝したのは両年ともシャシーナンバー「1075」。同じクルマが2度もル・マンを制した例はこれしかない。

13番グリッドからスタートすることとなったジャッキー・イクス/ジャッキー・オリヴァー組の6号車だが、スタートで各ドライバーが一斉にマシンへと走り出す中、ル・マン式スタートの危険性を唱えるイクスは、1人だけ歩いて乗り込み大幅に遅れてスタートする。その後はポルシェ勢の上位独占が続くのだが、残り4時間を切ったあたりからポルシェにトラブルが続発。気づけばイクス/オリヴァー組とハンス・ヘルマン/ジェラール・ラルース組のポルシェ908との一騎打ちとなった。

そして運命の最終ラップ。イクスとヘルマンは何度も順位を入れ替える激しいトップ争いを展開。24時間、4998kmを走りきり、わずか120mという僅差でイクス組がGT40に4年連続となる総合優勝をもたらしたのである。

その年末、JWはポルシェのワークス・チームになることを電撃発表。1970年はマシンをポルシェ917Kへと変更し、フェラーリ・ワークスとの全面対決を迎えることになる。その当時の様子を捉えたのが、スティーブ・マックイーン主演の映画『栄光のル・マン』だ。

そうした背景をもとに『フォードvsフェラーリ』を観てみるのも、面白いかもしれない。

文・藤原よしお 写真・Ford Motor Company、Ferrari