【4月13日 AFP】幕内優勝の経験もあるジョージア生まれの関取は、巨体を稽古場の土俵から起こし、汗だくの背中を土まみれにしながら、転がされた自分への怒りを瞳に燃え上がらせる。

 体重178キログラムの肉体と、稽古用の白いまわしは、相撲部屋では当たり前のものだが、明るい青の瞳と西洋風の顔立ちは、日本古来の武道の世界ではよく目立つ。

 栃ノ心(Tochinoshin)剛史、本名レヴァニ・ゴルガゼ(Levan Gorgadze)は、まだ10代だった2006年、古都ムツヘタ(Mtskheta)にほど近い故郷の山村を離れ、母国の10倍の人口を誇るネオンきらめく東京へやって来た。

 相撲界では外国人力士の数が増えており、栃ノ心もその一人だが、スターになるまでの道のりは平らではなかった。ホームシックやけがに悩まされ、ゴルフクラブでたたかれたこともあった。

 栃ノ心のキャリアには、1980年代から増え始めた外国人力士の難しさが端的に表れている。外国人力士が相撲界で大成しようと思うなら、超保守的な業界の体質や厳しい規則とうまく折り合いをつけなくてはならない。相撲界自体が近年、弟子への暴力や八百長、暴力団との関係といったスキャンダルで揺らいでいる事情もある。

 珍しく外国メディアのインタビューに応じた栃ノ心は、稽古後の部屋で「かあちゃんが反対したけど、そういうふうに自分で決めたんで」と話す。

 弱気でいたら新弟子の暮らしには耐えられない。そのことにはすぐ気づいたそうだ。

 主に東京・両国に集まっている相撲部屋で、力士たちはつらい朝稽古と部屋の仕事に明け暮れる。体づくりのため、高カロリーのちゃんこ鍋を平らげなければならず、食べ物に困ることはない。しかし相撲部屋は、旧態依然とした日本の暮らしが残る数少ない場所で、プライバシーはなく、若手は食べるのも、技を磨くのも、眠るのも仲間と一緒だ。

 栃ノ心は「最初は悲しかったし、寂しかった。着物とか相撲のルールの細かいことが多くて、ちょっとやりづらかった」と明かす。

 故郷が恋しかった。

「日本語も知らなくて、最初の1年間は大変だった。携帯電話もなかった」

 それでも辛抱強く番付を上げていき、横綱に次ぐ大関に昇進した。栃ノ心は「17歳で日本にきて、全てそこから学びました」「日本語もそうだし、やることも全部です」「稽古の相手、大切にすることも。一緒に生活しているから」と答えた。

 同部屋力士の絆は、稽古を見ていても明らかだ。力士たちは驚くほど優雅に土俵を動き回り、水を渡し合い、土俵に転がった仲間がいれば背中の土を払う。