【12月7日 CNS】三国時代の名軍師、諸葛亮(Zhuge Liang、孔明)の出生地は、一般的には山東省(Shandong)臨沂市(Linyi)とされるが、その観点を覆す新説が現地メディアで報道され、物議を醸している。

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 山西省(Shanxi)運城市(Yuncheng)臨猗県(Linyi)で10月28日、諸葛亮文化研究会が設立され、「諸葛亮は同県の天興村で生まれた」とする新説が発表された。地元の大学「運城学院(Yuncheng University)」を定年退職した元教授、王貞民(Wang Zhenmin)さんは「根拠は書物『山西通志』『栄河県志』と『運城市志』だ。いずれも、諸葛亮が天興村の人間と記している。諸葛亮の母親が息子を産み落とした窑洞(Yaodong、横穴式住居)は、現在も残っている。1700年前に諸葛亮の孫、諸葛京(Zhuge Jing)が河東に移住し、祖父のために建てた寺は武侯祠という。この武侯祠は今はもうなくなったが、その遺跡は残っている」と述べた。

 これを受け、山西日報は微信(ウィーチャット、WeChat)公式アカウントで11月11日、地元の運城市作家協会の王振川(Wang Zhenchuan)副主席が発表した文章「諸葛亮と河東」を転載した。

 この中で王副主席は「三国時代に諸葛氏は名士だった。『魏』の国には諸葛誕(Zhuge Dan)、『呉』の国には諸葛瑾(Zhuge Jin)、『蜀』の国には諸葛亮がおり、『史書』の『列伝』には、彼らはみな琅琊陽都県、すなわち現在の山東省沂南県(Yinan)の出身、とはっきりと記されている」と述べ、「諸葛亮の故郷がどこか、争う必要はない」と諸葛亮の出生地が山西省との見方を否定した。

 文章によると、「蜀」が滅亡後、諸葛亮の眷属は、「魏」の宮廷によって河東(黄河の東)に移住させられ、河東人となる。この移住は、主として「魏」の国家統治の観点から「蜀漢」の重要人物を四川から引き離し、首都の洛陽(Luoyang)から近い場所に置いたほうが、管理しやすくなることが主旨だった。

 河東に移住したのは、主に諸葛亮の息子、諸葛瞻(Zhuge Zhan)の次男、諸葛京と諸葛亮の養子である諸葛喬(Zhuge Qiao)の孫、諸葛顕(Zhuge Xian)の両家だったとされる。

「移住後、生活が安定すると、祖父のために祭事を行い、祠堂をつくろうとするのはごく正常なことで、子供たちに先祖の諸葛亮の話をするのもごく正常なことだ。時間が経つにつれて、話の内容が変化し、諸葛亮がこの土地の人間だったと勘違いしたとしてもおかしくはない」と王副主席は語る。(c)CNS-澎湃新聞/JCM/AFPBB News