【11月8日 Xinhua News】中国陝西省(Shaanxi)考古研究院は5日、秦・咸陽城(Xianyang)遺跡で出土した青銅器について、考古学者が研究と検証を重ねた結果、「蜀守・斯離」の監督下で製造されたものであることが分かったと発表した。

 青銅器は、遺跡の重要な埋葬区域に当たる同省西咸新区秦漢新城坡劉村にある戦国(紀元前475年~紀元前221年)後期の秦の貴族の墓2基から出土した。寧夏回族自治区(Ningxia Hui autonomous region)銀川(Yinchuan)と陝西省西安市(Xi'an)を結ぶ銀西高速鉄道の建設に合わせ、研究院が2017年冬から墓2基の発掘をしていた。2基は盗掘を免れた状態だった。小さい方の墓は「一棺一槨(いっかんいっかく)」と呼ばれる内棺を外棺(槨)に入れた二重の棺で埋葬され、槨室はさらに頭箱と辺箱の2室に分かれていた。辺箱の中からは墓の主人の副葬品とされた大量の動物の骨が見つかり、合計40点(組)余りの遺物が出土した。

 大きい方の墓は、竪穴墓道と墓室の2つの部分から成り「一棺両槨」(1つの内棺を二重の外棺内に納める)の形で埋葬されていた。墓道の足元には墓の主人に捧げる大量の動物を納めた木箱が置かれ、合計155点(組)の遺物が出土した。

 今回の発掘では、青銅の礼器や日用雑器、武器、腰につける玉飾り、璧(へき)などの遺物が出土したほか、大量の漆器の痕跡も見つかった。同研究院の許衛紅(Xu Weihong)研究員によると、墓の構造と体質人類学に基づいた鑑定の結果、埋葬されていたのは2基とも男性で、出土した遺物から判断すると、埋葬された年代は咸陽に秦の都が置かれていた戦国後期と推定される。士・大夫貴族階級に属していたとみられる。

 また、大きい方の墓から出土した銅鏡の中心部に刻まれた16文字の銘文は「十九年蜀守斯離造工師某臣求乗工耐」であることが分かった。この様式は秦の昭襄王の時代によく見られ「蜀守・斯離」とは器物の製造監督責任者を表している。

 今回出土した銘文からは、斯離が一度は蜀の国守に任じられていたことがわかる。許氏は、この考古学上の発見は戦国後期の政治組織や社会態様を研究する上で、重要な参考価値を持つと説明した。(c)Xinhua News/AFPBB News