■失言?

 東ドイツ政府はもともと、ビザ取得を義務付けた上での制限付き出国を考えており、国境沿いのインフラは維持するつもりだった。一夜にしてベルリンの壁を崩し、それとともに東ドイツ自体を崩壊させるつもりももちろんなかった。このため、シャボウスキー氏の発言が、政府の判断ミスだったのか、故意で行った大胆な発言だったのかが議論となっている。シャボウスキー氏は2015年に86歳に死去するまで、この問いに明確に答えることはなかった。

 だが、2009年にシャボウスキー氏は独日刊紙タッツ(TAZ)にこう述べたことがある。「ドイツ民主共和国を救いたいのであれば、そこから脱出したがっている人々にはそうさせるしかないという結論にわれわれは至った」

 しかし、東ドイツの反体制活動家だった経歴を持つ現ドイツ連邦議会(下院)議員のウォルフガング・ティールゼ(Wolfgang Thierse)氏は、シャボウスキー氏は自らの発言の影響を完全には理解していなかったに違いないと指摘している。

■動いた群衆、崩れた壁

 その後の出来事は、冷戦開始から40年以上がたっていた東ドイツの潮目を変えた。シャボウスキー氏の言葉をラジオで、テレビで、あるいは人づてに聞いた大勢の東ドイツ国民が一晩中、国境に押し寄せ続けた。

 ベルリンの壁にも、最初は慎重に、やがて疑いながらも人々が集まってきた。集まった人々は、壁の反対側からすでに声援を送っていた西ベルリン住民に勇気づけられた。膨れ上がった群衆の目の前で、壁はやがて開かれた。

 この夜、あっけにとられながらも、国境を越えようと西へ向かっていた東ベルリン住民の一人が、近所の狭いアパートに住んでいたアンゲラ・メルケル(Angela Merkel)現ドイツ首相だった。メルケル氏は「私たちはただ、言葉では言い表せないほど幸せだった」とその時のことを後に回想している。

 東ドイツ科学アカデミー(GDR Academy of Sciences)の化学研究者だったメルケル氏はその晩、西ベルリン側で友人たちと「缶ビール1本」でつつましく祝杯を上げ、それほど遅くならない時間に東ベルリンの自宅へ帰ったという。

 この夢のような夜、東西のベルリンっ子たちは、ブランデンブルク門(Brandenburg Gate)の前にある忌み嫌われたベルリンの壁の上によじ登り、自由と「歴史の終わり」を祝って踊った。涙の再会を果たしたドイツ人たちの歓喜の映像が世界中を駆け巡った。

 シャボウスキー氏はその後、どうなったのだろうか。東ドイツ体制下で西側へ脱出しようとした人々を国境警備隊に射殺させた政策の共同責任を問われ、1997年に有罪となり服役したが、2000年に恩赦を受けた。(c)AFP/Yacine LE FORESTIER