■ベルリンの壁

 ベルリンの壁は、鉄のカーテンの最も有名な物理的障壁だ。

 ソ連の衛星国だったドイツ民主共和国(東ドイツ)は1952年、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)との国境に有刺鉄線で幅10メートルの緩衝帯を設置した。しかし、ベルリンは当時東西に分断されてはいたものの越境は可能だったため、1952年から61年の間に約300万人が東から西へ脱出している。

 東ドイツは1961年、労働力の大量流出を阻止するため壁の設置を始めた。コンクリート製の壁は、全長155キロに及んだ。

■脱出の試み

 東欧諸国の市民が西側を訪問するには厳しい条件が課されていた。このため、許可なしで西側へ行こうとする人々は大きな危険を冒さざるを得なかった。

 歴史家によると、東ドイツからの脱出を試みて死亡した人の数は600~700人、ベルリンの壁を越えようとして死亡した人の数は約140人に上った。脱出に成功したのは約5000人で、斬新な方法を使う人もいた。

 例えば、ある男性は建物の屋根から弓矢でワイヤケーブルを西ドイツの親戚の家に張って、それを伝って西側へ行った。ベルリンのシュプレー川(Spree River)を泳いで渡ったり、熱気球を利用したりした人もいた。

■崩壊

 鉄のカーテンに初めて亀裂ができたのは1989年5月、ハンガリーがオーストリアとの国境開放を決定した時だった。

 同年8月19日、ハンガリー・オーストリア間の国境は「汎ヨーロッパ・ピクニック(Pan-European Picnic)」によって象徴的に数時間だけ開放され、600人以上の東ドイツ市民が国境を越えた。

 東欧諸国ではそのすぐ後、共産主義政権が崩壊し始めた。東ドイツ市民はデモを始め、同国政府は11月9日に突然、西側への自由な旅行を認めた。

 これにより、数千人がベルリンの壁に殺到、混乱した国境警備隊は検問所を開放した。興奮状態のベルリン市民は夜通し祝い、壁によじ登るとつるはしで壁を砕いた。

 それから2年もたたないうちソ連が崩壊し、それとともに鉄のカーテンも崩れ去った。(c)AFP