【11月7日 AFP】「鉄のカーテン(Iron Curtain)」は、第2次世界大戦(World War II)後、共産主義陣営の東欧を資本主義陣営の西側からイデオロギー的および物理的に分断するためのものだった。

■「鉄のカーテン」

「鉄のカーテン」という言葉は、ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)英元首相が1946年3月、野党保守党党首として米国で行った歴史的演説で使い、広まった。

 チャーチルは「バルト海(Baltic Sea)のシチェチン(Stettin)からアドリア海(Adriatic Sea)のトリエステ(Trieste)に至るまで、鉄のカーテンが大陸を横切って下されている」と述べた。この発言は、旧ソビエト連邦と西側諸国とが40年以上にわたって対立した「冷戦(Cold War)」の火ぶたを切ったと考えられている。

 だが、鉄のカーテンという言葉自体は、チャーチルの発言よりも前に作られていた。ロシアの作家バシリー・ロザノフ(Vasily Rozanov)は1918年の著作「The Apocalypse of Our Time(われらの時代の黙示録)」で、「鉄のカーテンがギシギシと音を立てて下ろされ、ロシアの歴史にも幕が下ろされた」と書いている。

■物理的な障壁

 ソ連支配下の東欧と西側とのイデオロギー的対立によって、徐々に物理的障壁が造られるようになり、その障壁は数千キロに及んだ。

 東欧諸国は自国民の西側への脱出を阻止するため、鉄条網や溝、コンクリート製の壁などさまざまな障壁を造り始めた。これらの障壁は、警報機や見張り塔、兵士の配備などにより管理された。

 最初に障壁を設置したのはハンガリーだった。1949年、オーストリアとの国境沿いに260キロにわたって鉄条網のフェンスを造ったのだった。