【10月21日 AFP】中国の首都・北京の中心街の通りを歩き始めるやいなや、何かが変だと感じた。誰も私に気を留めないのだ。

 前回この街に来たのは15年前、じろじろ見られずに歩くことは不可能だった。だが今は誰も私を気にしていない。落ち目のハリウッド(Hollywood)スターはこんな気分か、と心の中で思った。

中国人の運送業者が三輪車で運んでいるのは、ロシア人の客と彼らが商店街で買った衣料品。ロシアや旧ソ連の共和国から大勢の人が北京を訪れて衣料品を購入し、自国で再販売して利益を得ている(1995年6月13日撮影)。(c)AFP/ Yoshikazu Tsuno

 中華人民共和国が建国70周年を迎え、この70年間の成果が評価される中、私が振り返って驚嘆するのは、1993年にこの国を初めて訪れたときからの信じ難い変容ぶりだ。当時、私はロンドンで出会った中国人女性と結婚したばかりだった。1997年に再び中国に戻って来て、AFPの記者として4年間を過ごした。2001年に離任したときは、いずれまたAFPの仕事で戻ると思い、それ以降、再訪はしていなかった。だから実際に中国に戻って来てみて、この地で起きていた変化に驚いた。本当に、驚くほど変わっていたのだ。

春節(旧正月)を控えた北京の公園で、赤いちょうちんの下をスクーターに乗った子どもと一緒に走る少女。(2019年1月24日撮影)。(c)AFP / Wang Zhao

 私が去ったときの中国は発展途上国で、一般人はほとんど訪れることができない欧米諸国に恐れと戸惑いの視線を向け、個人の自由は厳しく制限されていた。そして私が戻って来たときには、世界第2位の経済大国になっていた。一般人は休暇で訪れる欧米諸国を見下し、最先端の技術にあやかりながらも相変わらず自由は制限されていた。

 2016年にこの国に戻って来たとき、支局から散歩に出掛けた途端、その変化の大きさに衝撃を受けた。以前は、欧州人である私の顔はすれ違う人々の視線を集めた。だが今こうして歩いても、誰一人、ちらりとも見ない。そしてその理由はすぐに明らかになった。

北京で三輪車に相乗りする仲の良いカップル(1997年3月11日撮影)。(c)AFP / Robyn Beck

 以前は北京市内を歩く欧州人は珍しく、異国の生き物だった。中国人の妻と、白人とアジア人の間に生まれた子ども3人と一緒のときは、なおさらそう見られた。子どもを持つことが1人しか許されない国で、私たちはさらに目立った。「フランスでは、子どもを複数持つことが許されているのか」とよく尋ねられたものだ。そんな彼らに、許されるどころか、子どもを産むことを奨励され、子どもを1人持つごとに所得税が減税されるとは到底言えなかった。

 当時は、欧米人と中国人が結婚することは非常に珍しかったので、妻はよく子守に間違えられた。妻が女性から注意を受け、人前でその男性(私)と手をつないではいけない、「通訳として不適切な行為」だと言われたこともあった。時には、通りで私たちの後をつけてきて、私たちが子どもたちに何を言っているのか聞き耳を立てる人々までいた。あるとき高齢の女性がこう言った。「ああ、これは中国語だ! 何て言ったか分かった! 1時間も聞いていたけど、中国語のときもあれば外国語のときもあって理解できなかったよ」

北京の街角を走る自転車の後ろで眠る少女(2014年7月30日撮影)。(c)AFP / Wang Zhao
北京で放課後の学校のそばを走る自転車の後ろで傘を差す少女(2014年9月2日撮影)。(c)AFP / Wang Zhao

 だが今は、一人で歩いていても、私の方に視線が向けられることはほとんどない。理由はすぐに分かった。かつては閑静な地区だった三里屯(Sanlitun)を訪れると、大勢の外国人が超モダンなホテルやバー、高級店に出入りした。私は北京ではもう、数少ない「老外(外国人)」ではなくなったのだ。

 前は、一言「你好(こんにちは)」と言いさえすれば、「中国語がすごくお上手ですね!」という言葉が返ってきた。だが今では欧米人が彼らの言葉を話しても、タクシーの運転手も顔色一つ変えず、1990年代のように、欧米の暮らし、特に給与について聞かれることもなくなった。

 昔は、欧米諸国や欧米風のあらゆるものが崇拝されていた。だが今、感じられるのは、ある種の軽視だ。国営メディアは、中国はもはや物質的豊かさという点で欧米から学ぶことはなくなった、むしろ統治体制に関しては、欧米は中国から学ぶことがたくさんあるという主張を盛んに繰り返している。

欧米風のファッショナブルな格好で北京を歩く女性(2016年5月20日撮影)。(c)AFP / Wang Zhao

 私が出合うはずの変化についてはある程度、心構えができていた。記録的な大気汚染、悪夢のような交通渋滞、そして米ニューヨーク・マンハッタン(Manhattan)かと見まがうような北京のビジネス街。今世紀初めに私がこの街を離れたときにあった最も高い高層ビルは、今日の摩天楼に比べると赤ん坊に見える。

北京のビジネス街(2018年7月26日撮影)。(c)AFP / Wang Zhao

 私が予期していなかったのは、人々の振る舞い方の変化だ。人前で手をつなぐカップルや、野外でキスをする若者たち、退職して悠々自適で犬の散歩をする人々──それほど遠くない過去には「ブルジョア」とレッテルを貼られていたような人々だ。

中国の建国70周年を祝うため、乾燥唐辛子で描かれた巨大な中国の地図と国旗の空中写真。北西部の甘粛省張掖で(2019年9月23日撮影)。(c)AFP / Stringer

 いくつかの変化はとりわけ目を見張るが、国民総生産(GNP)が過去10年で倍増したのもその一つだ。

北京の凍結した川でスケートを楽しむ人々(2017年1月21日撮影)。(c)AFP / Fred Dufour

 私が1993年に初めて北京に降り立ったとき、空港はソビエト式の巨大な建物だった。市内に向かう車が走る田園の中の幹線道路の両脇にはシダレヤナギが生えていた。道路の状態から、その上を走る車まで、いかにも発展途上国らしさを感じさせた。

 現在の空港には三つのターミナルがあり、空港につながる幹線道路は上下線とも常に渋滞している。北京の南部に二つ目の空港が開港したばかりだが、この国の多くのものがそうであるように、その空港もきっと「世界最大」のはずだ。

北京大興国際空港の開港1日目に空港内を歩く人々(2019年9月25日撮影)。(c)AFP / Str

 住民2100万人の北京を囲む環状道路は今や5本を数え、私が2001年にこの国を離れたときからさらに2本が増設された。最後に建設された1本の全長は200キロを超えている。

北京のビジネス中心街の環状道路(2019年3月21日撮影)。(c)AFP / Fred Dufour
北京中心部の交通渋滞(2018年4月16日撮影)。(c)AFP / Fred Dufour

 公共交通機関も爆発的に増えた。私の離任時には地下鉄路線は2本だった。今は約20の路線があり、その大半が2008年の北京五輪開催に向けて建設されたものだ。

 北京から他の街に行きたいときは、世界最大の高速列車網も選び放題だ。今では上海まで4時間半で行ける。かつては20時間以上かかっていた。

上海と香港を結ぶ初の直通特急列車を九龍駅に乗り入れ、笑顔を見せる運転士(1997年5月12日撮影)。(c)AFP / Peter Parks
春節(旧正月)に向けた恒例の帰省ラッシュを前に一斉に並んだ高速列車。中国・湖北省で(2018年2月1日撮影)。(c)AFP

 車はどうだろう。北京市内でAFP社用車のプジョー(Peugeot)を運転していると、三里屯周辺でこれ見よがしに走るフェラーリ(Ferrari)、ランボルギーニ(Lamborghini)、マセラティ(Maserati)など、何台もの高級車に圧倒される。とりわけ夜になってパーティーを楽しむ成金たちといったら。25歳で少なくともポルシェ(Porsche)1台でも持っていなければ、敗者に見えてくることもある。

北京で電気三輪車に荷物を山積みにした男性(2019年6月5日撮影)。(c)AFP / Wang Zhao

 昔は、中国人が当局から「観光旅行先」として許されていたのは、わずか数か国だった。今日では、ニューヨークの自由の女神像(Statue of Liberty)からフランス・パリのエッフェル塔(Eiffel Tower)、ペルーのマチュピチュ(Machu Picchu)遺跡に至るまで、世界中の主だった観光スポットに中国人観光客があふれている。

 私がこの変化をはっきりと認識したのは、つい最近。早めの時間帯に出社して、1週間の休暇から戻って来た清掃作業員の女性のワンさんと出くわしたときだ。

「休暇はどうでしたか、ワンさん」と私は尋ねた。

「素晴らしかったですよ。スペインに行ってたんです」という答えが返ってきた。

「どこですって?」と、聞き間違いかと思いながら聞き返した。

「スペイン」。彼女の答えに私は少しあっけに取られた。清掃作業員の女性が1週間スペインに行くなんて、20年前には考えられなかった。世界に対してこれほど開かれたことで、中国は思想や情報に対しても開かれる国になるのか、それはまだ分からない。<パート2に続く>

フランス・パリの中国人観光客(2013年3月27日撮影)。(c)AFP / Eric Feferberg
北京中心部の交通渋滞(2018年4月16日撮影)。(c)AFP / Fred Dufour

このコラムは、AFP北京支局のパトリック・バエ(Patrick Baert)記者が執筆し、2019年10月3日に配信された英文記事の前半を日本語に翻訳したものです。