■晩年の苦悩

 カラシニコフ氏は、AK47を設計したのは「祖国の国境防衛」のためだと話していた。だが、ジャーナリスト、C・J・チバーズ(C.J. Chivers)の著書「The Gun」によると、ソ連がAK47を初めて国際的に使用したのは1953年の東ベルリン暴動の鎮圧のためだった。また、1956年のハンガリー動乱の鎮圧にも使われたという。

 1991年のソ連崩壊により武器の不正取引が横行すると、AK47はゲリラや独裁者、さらには米国の学校襲撃犯の手にまで渡るようになった。フランス・パリで発生した一連の襲撃事件やギャングの抗争、アフリカの野生動物の密猟にも使用されている。

 カラシニコフ氏は晩年、自身が設計した銃によって多くの人が犠牲になったことに苦しんでいた。ロシア正教会の総主教宛ての書簡で、自分の銃が人々の命を奪ったのなら、自分は彼らの死の責めを負うのだろうかと問い掛けている。さらに、紛争地域の子どもまでAK47を手にしていることに「深い苦悩」を感じたとも述べている。

■「極秘扱い」

 ソ連時代、カラシニコフ氏の功績は秘密にされていた。

 1970年代に伝記を執筆するため米国の武器歴史家がカラシニコフ氏に郵便で連絡を取ろうとしたが、ソ連国家保安委員会(KGB)によって一切の接触を禁じられた。カラシニコフは著書の一つで「設計士の道を歩み始めた時から、私は世間から隠され、極秘扱いになった」と書いている。

 カラシニコフ氏の娘ネリ・カラシニコフ(Nelli Kalashnikova)さんは、父親の仕事のことは何も知らずに育った。1990年代になるまで「私たち家族は秘密にされ、子どもたちも秘密にされ、すべてが秘密にされていた」とAFPに語った。ネリさんは父親のことを物静かで、控え目で、とてつもない自制心を持った人だったと振り返る。

 秘密のベールがなくなると、カラシニコフ氏は生ける伝説となった。だが、自身の設計した銃から経済的な利益を得ることはほとんどなく、ロシア・ウドムルト(Udmurt)共和国のイジェフスク(Izhevsk)で質素な生活を送った。(c)AFP/Andrea PALASCIANO