【10月17日 東方新報】中国で最初の無人飛行機・北京5号の設計者で、中国のフライトシミュレーター開発者として知られる文傳源(Wen Chuanyuan)氏が1日、北京の病院で死去した。101歳。告別式は7日、八宝山殯儀館で行われた。中国航空・宇宙飛行業界において著名な教育者かつ科学者であり、北京航空航天大学(Beihang University)自動化学科の創始者の一人でもある。

 1918年に湖南省(Hunan)衡山県(Hengshan)で生まれた文氏は、1943年に西北工学院(現西北工業大学)航空工程学部を卒業。48年末から革命に参加、49年に党員となり、同年12月人民空軍訓練部で機械参謀の任についた。建国後の1951年、華北大学工学院で副教授を務め、52年に北京航空学院(現北京航空航天大学)に異動した。

 文氏の最大の功績は、無人飛行機を設計したことだ。当時は資料も経験もまったくなく、設備もないという三無状態の困難な環境で、文氏率いる研究チームは一から設計をはじめ、ついには周恩来(Zhou Enlai)氏の支持を得て1958年に学院内に無人飛行機開発指揮部を設立、この年の10月1日の国慶節に、最初の無人飛行機(自動操縦)試作機の飛行に成功した。

 無人飛行機には自動着陸システム、エンジンコントロールシステムなどおよそ12のシステム開発が必要で、これらを国慶節の試験飛行に間に合わせるという重責に応えるため、文氏の体重が53キロから44キロにまで減るほどの仕事量をこなしたという。およそ300日の間に数百回の実験を行った。

 1961年の国慶節では「北京5号」が無線誘導によって着陸に成功し、これが中国初の無人飛行の成功例となったのだった。

 1975年に国産戦闘機殲6のフライトシミュレーターの研究開発を国務院と中央軍事委員会が決定するとその総合設計チームのリーダーに選ばれた。全国40以上の協力機関を束ね、およそ8年をかけてこのフライトシミュレーターの開発に成功。これは中国初の国産フライトシミュレーターであり、その後のこの分野の基礎となり、1985年に国家科学技術進歩一等賞を受賞した。

 文氏はほかにも数々の科学賞を受賞しているが、賞金の多くは奨学金として寄付している。同氏の生家は貧しく、1936年に湖南省長沙市(Changsha)第一高級中学と第一師範学校に合格するも、学費のかかる第一高級中学を断念し、無償の第一師範学校に入学した。師範学校卒業後は最低2年間教師を務める義務があったが、どうしても大学に進学したかったので、働きながら大学受験勉強をしていたという。その当時の仕事と勉学を両立する苦労の経験から、貧困家庭の優秀な学生たちを助けたいというのが彼の変わらぬ願いだった。

 文氏は中国初の博士課程の指導教員でもある。1988年に大学を退官後も研究の現場に戻り2003年まで学生を指導し続けた。教学の現場を離れたのちも、知識欲は旺盛で、シミュレーション学の「相似理論」体系を完成させるなど研究を続けた。90歳の高齢で、中国古代科学者の史料などを収集し、自然科学に対する独創的な思索をまとめた著作も発表している。

 2018年に行われた「北京5号」テスト飛行成功60周年の祝賀大会で、100歳の文氏は「もう年を取って、気力もずいぶん減った。未来は若い皆さんに託すよ。だが、私もまだまだ老いに負けてられないよ。われわれは手を取り合って奮闘し続けましょう!」と演説していたのが、昨日のことのように思い出される。その1年後、文傳源氏はこの世を去ったが、その希代の科学エンジニアの精神は受け継がれていくだろう。 (c)東方新報/AFPBB News