■フローリーさんの命の恩人の息子も救助船に

 さらにフローリーさんは、オーシャン・バイキング号に救助された別の移民アブドゥラマンさん(22)の父親に、命を助けられていたことも覚えていた。アブドゥラマンさんの父親はその後、戦争犯罪の責任を追及されているスーダン政府系民兵「ジャンジャウィード(Janjaweed)」に殺害されたという。

 フローリーさんは、「私たちは周りには何もないムジャヒリア(Mujaheria)という地区で10~12人体制の小さな外科診療所を運営していました」と話した。「ある日、地域の住民から、スーダン政府はここにいる人たちを追い出そうとしている、危険が迫っているので逃げなければならない、と言われました。それがアブドゥラマンさんの父親でした」

 アフリカで20年以上にわたって複数の紛争を見てきたフローリーさんは、「その地区、その診療所から離れるのは難しかった。非常に多くの住民に医療を提供していたんです」「夜間に40人から50人の患者が来ることも頻繁にありました」と語った。

「私たちは逃げなければなりませんでした。逃げろと言ってくれた人たちは本当に命の恩人です。あの場所を離れた後、あなたたちに恩返しをするのが私の望みでした。あなたたちの家族が私を助けてくれたのですから、私はあなたたちを助けなければなりません。感謝しています」 「これは私たちが共有する愛の連鎖です」(フローリーさん)

 当時7歳だったアブドゥラマンさんによると、父親がフローリーさんたちに警告を発してから間もないある日の未明にジャンジャウィードが村を襲撃し、目の前で父親が殺されたという。「私は兄弟姉妹の中で一番下の子供でした。多くの人が殺されました。今も兄の消息は分かりません」。

 アブドゥラマンさんは母親と一緒に逃げ、ダルフール地方の主要都市の一つ、ニャラ(Nyala)の国内避難民キャンプに身を寄せた。

 オーシャン・バイキング号に救助されたオマルさんとアブドゥラマンさんは、ピーナツを主な材料とするMSFの非常食を受け取ったが、それは2人がダルフールの避難民キャンプで与えられていたのと同じものだった。

 オマルさんとアブドゥラマンさんは、爆撃が始まる直前に飛行機が近づいてきたときの恐怖を振り返り、声をそろえて「ブルルルルル」と言ってその音を再現した。フローリーさんによると、爆撃はジャンジャウィードの襲撃を支援するために行われることが多かったという。

 しかし、二人の悪夢はそこで終わったわけではない。欧州で新しい人生を始めようとする二人は、何度も困難に遭遇した。(c)AFP/Anne CHAON