【8月13日 AFP】アフガニスタンでジャーナリストをしている私は、悲惨で胸が締め付けられるような光景を何度も目にしてきたが、中でも最も深い悲しみに打ちひしがれたのは、ニアズ・ビビ(Niaz Bibi)さん(70)の自宅を訪ねた時のことだろう。

 ビビさんは、40人ほどの子どもたちを一人で養っている。イスラム過激派組織「イスラム国(IS)」によって殺害された息子3人と孫3人の子どもたちだ。ビビさんはできる限りのことをしているが、とても貧しいため一家が暮らす環境は刑務所とあまり変わらない。

「お父さんを見た?」。私が家を訪ねると、子どもたちの何人かがそう聞いてきた。父親が死んだことを知らないのだ。どこかへ行っているだけだと思っているのだ。子どもたちは父親の写真を見ながら、戻ってくる日を指折り数えていた。

アフガニスタン東部ナンガルハル州で、息子たちをISによって殺害され、孫やひ孫たちを養うニアズ・ビビさん(中央)。殺害された3人の息子たちの写真を手に(2019年4月16日撮影)。(c)AFP / Noorullah Shirzada

 もし私が自宅に戻らなかったら、私の子どもたちもこうなるのだろうか。ビビさんがおなかをすかした子どもたちにほんの少しのパンを与えようとしているのを見ると、涙が私の頬を伝った。もし私が死んだら、私の子どもたちも父親がまだ生きていると信じて帰りを待ち続けるのだろうか?

 自宅を訪れる前、ビビさんは2016年にIS戦闘員らが息子たちを斬首した道路脇に、私を案内してくれた。その日、必死に命乞いをする息子たちの声が聞こえたという。彼女の落ちくぼんだ目に涙があふれた。だが誰一人、自宅に戻って来なかった。

 私がビビさんの自宅を訪ねた時、家の隅にあるベッドに高齢の男性が横たわっていた。「主人です。息子たちが殺された日に目が見えなくなりました」。彼女の肩には今、夫と数十人の孫やひ孫の世話がのしかかっている。

銃を手にしたニアズ・ビビさん(中央)と、ビビさんの孫やひ孫。アフガニスタン東部ナンガルハル州で(2019年4月22日撮影)。(c)AFP / Noorullah Shirzada

 ビビさんが暮らす地区では、誰もがISの残忍さを目の当たりにした経験を持つ。アフガニスタンや米国の軍隊は、ISを近くの山岳地帯に追いやった。だが、じきに戻ってくるだろう、と村人たちは話す。暴力、死、報復が繰り返され、ビビさん一家がそこから抜け出すことは非常に困難に思える。

「多くのものを失ったけれど、この子が大きくなった時にも内戦が続いていたら、祖国のために命をささげるよう戦地に送り出すでしょう」と、ビビさんは話す。

 私は今、アフガニスタン東部のジャララバード(Jalalabad)に住んでいる。そこでは旧支配勢力タリバン(Taliban)と米国の支援を受ける政府軍との戦闘が続いており、ISも台頭しつつある。1979年12月24日の旧ソ連軍によるアフガニスタン侵攻以降、この国は40年にわたり内戦状態にある。当初は旧ソ連軍とムジャヒディン(イスラム聖戦士)との間の戦いだったが、ムジャヒディンの内部抗争へと発展し、タリバンによる支配権の継承後、2001年9月11日の米同時多発攻撃を経て、米主導のアフガニスタン侵攻が始まった。

 その間にこの国の一般市民たちは、殺害されたり負傷させられたり拷問されたりした。3世代目の子どもたちは心に傷を負っており、障害を負わされた人々が至る所で見られる。

アフガニスタン・ジャララバード郊外で遊ぶ子どもたち(2018年4月28日撮影)。(c)AFP / Noorullah Shirzada

アフガニスタン・ジャララバードの葬儀会場で起きた自爆攻撃の犠牲者の所持品(2017年12月31日撮影)。(c)AFP / Noorullah Shirzada

 ビデオジャーナリストである私は、暴力や悲劇について耳にし、それを記事にすることが日常となっている。人が苦しむ姿を目にすることには慣れてしまった。だが時々、そうした悲劇を初めて目にした時のように、よろいを突き抜け私の心に突き刺さる出来事や、あまりのひどさにとても耐えられない出来事を目の当たりにする。ビビさんのケースも、そうした出来事の一つだ。

 もう一つが、脚を失った子ども7人がいる一家のケースだ。

不発弾の爆発により脚を失った子どもたち。アフガニスタン・ナンガルハル州にある一家の自宅で(2019年5月3日撮影)。(c)AFP / Noorullah Shirzada

 この家族の悲劇は2018年4月、子どもたちの登校途中に始まった。その日、村の子どもたち10人が学校に向かって歩いていると、地面に奇妙な物が落ちているのを見つけた。好奇心旺盛な子どもたちのことだ。当然ながらそれを拾い、登校に付き添っていたおばに見せた。次の瞬間、爆発が起きた。

 それは、迫撃砲の不発弾だった。何十年も内戦状態にあるこの国では、地雷や砲弾、爆弾が散在しており、こうした光景はよくあることだった。この爆発でおばと子ども3人が死亡。一命を取り留めた7人の子どもたちも片脚、もしくは両脚を失った。

 この事故の話を聞いた時、私は子どもたちの様子をカメラに収めるため病院に駆け付けた。病院に着くと、脚を失った子どもたちがベッドに横たわっていて、その周りで親族らが泣き叫んでいた。それは私にとってとてもつらい光景で、自分の家族に何かひどいことが起きたような気持ちになった。

爆発に巻き込まれ、アフガニスタン・カンダハル州の病院に空路搬送される少年。少年は片脚を失った(2011年8月25日撮影)。(c)AFP / Johannes Eisele

アフガニスタンの首都カブールで発生した車爆弾の被害者を治療する医療スタッフ。少なくとも17人が死亡、110人が負傷した(2018年1月27日撮影)。(c)AFP / Wakil Kohsar

 病院で目にした光景にひどく心を揺さぶられた私は、自宅に戻った子どもたちにぜひとも会いたかった。だが彼らが住んでいる地域は戦線にあり、タリバンが監視に当たっているため非常に危険だった。さらにISも活動を活発化させており、罪のない人々を容赦なく殺害していた。どちらの武装勢力もジャーナリストが嫌いだった。タリバンは、ジャーナリストが政府や米国のスパイではないかと疑うと、殺害したり人質に取ったりする。一方のISは、生かしたまま連れ去ることはなく、その場で殺害する。ISはジャーナリストを米国のスパイと見なしており、殺害すれば報奨金を出すと戦闘員らにハッパを掛けている。

 情勢不安を理由に、おじをはじめとする親族は、行かないでくれと私に訴えた。「危険を冒すんじゃない」と、彼らは言った。私は最初、親族の言葉に耳を傾けていたが、ふとこう思った。情勢不安を理由に仕事をしないくらいなら、もうこの仕事はやめてしまった方がいいだろう。安全が確実に保証される場所など、この国のどこにあるというのだろうか?

アフガニスタン政府軍に加わった元タリバン兵。同国ヘラートで(2013年6月26日撮影)。(c)AFP / Aref Karimi

 それでも私は細心の注意を払った。一家の自宅に一日滞在してビデオ撮影を行うのが理想だったが、それは不可能だった。よそ者がいることがタリバンやISに知られれば、殺害されたり誘拐されたりするだろう。安全のためには周囲に知れ渡る前に家を後にするのが賢明だ。そのため私は、短時間の滞在を数日に分けて行うことにした。

 私は結局、計4回、一家を訪ねた。いつも明るさがちょうどいい午後を選んだ。兄弟か友人を一人伴い、訪問先から800メートルほど離れた場所に車を止め、連れを車内に残してオートバイに乗った男らの監視に当たってもらった。タリバンの戦闘員は、よくオートバイに乗って移動していた。

義肢を脇に置き、祈りを捧げるアフガニスタン人男性。首都カブールで(2012年4月14日撮影)。(c)AFP / Johannes Eisele

 一家の質素な自宅には、いくつもの銃弾の跡が残っていた。子どもたちはおびえて室内に身をひそめていた。子どもたちが話すのは爆発のことだけで、心に傷を負っていることは明らかだった。

 子どもたちが外に出て、ベンチに座ったこともあった。私は彼らが脚の先端に布を巻き、義肢を身に着ける様子を撮影した。爆発に巻き込まれてから1年が経過し、彼らの傷はほんの少し癒えていたが、苦しみから解放されることはなく、「僕たちの将来はめちゃくちゃだ」と私に言い続けた。

不発弾の爆発に巻き込まれ脚を失った子どもたち。アフガニスタン・ナンガルハル州にて(2019年4月30日撮影)。(c)AFP / Noorullah Shirzada

 その様子を見るのは非常につらかった。最も心を強く揺さぶられたのは、まだ6歳の少女が、父親が数年前に家を出て行ったきり戻らないと話してくれた時だった。少女には、父親が生きているのか死んでいるのかさえわからないのだ。

 この取材には危険が伴ったが、私はリスクを冒してよかったと思っている。この国のジャーナリストには危険がつきものであることや、自宅を出たら運命に身を任せなければならないこと、それに私が戻るまで家族が心配し続けていることなどは百も承知だ。

 だが、こうした記事を世界に向けて発信することは重要だ。これは2組の家族だけの話ではなく、この国全体の話でもあるのだから。この国の家族は皆、人が殺されたり傷つけられたり家を追われたりした様子を目撃している。

 私は今回、戦争がどのようなものかを伝えるためにこの記事の執筆に関わった。

戦闘被害者の治療を行う病院の椅子に座る脚を失った男性とギブスをした子どもたち。アフガニスタンの首都カブールで(2012年4月14日撮影)。(c)AFP / Johannes Eisele

 アフガニスタンで内戦が続くことを望む人々に対し、女性や子どもといった一般市民が犠牲になっていることを伝えるために。戦闘によって、この国の数千人が障害を負い、子どもたちの半数は学校にも通っていない。教育を受けていない世代が再び形成されつつある。これは、反政府武装勢力にとって彼らを取り込む絶好の機会だ。こうして出口の見えない戦いが延々と続く。これら2組の家族の取材で私が感じた苦痛と悲しみは、今後何年も続くことだろう。

 このコラムは、ジャララバードに拠点を置くヌールラ・シルザダ(Noorullah Shirzada)記者が、AFPパリ本社のヤナ・ドゥルギ(Yana Dlugy)記者とともに執筆し、2019年6月21日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。

カメラを手にしたヌールラ・シルザダ記者(撮影日不明、本人提供)。(c)Noorullah Shirzada