【7月17日 AFP】米カリフォルニア州サンディエゴ(San Diego)で18日から、第50回コミコン・インターナショナル(Comic-Con International)が開催される。世界最大のポップカルチャーの祭典とされる同イベントには、13万5000人に上る「オタク」が集結するとみられているが、その始まりはささやかなものだった。

 1970年3月、当時36歳だった1人のコミックコレクターと、彼の10代の仲間たち5人の発案で開催された1回目のコミコンは、今年の会場のほど近くにあったみすぼらしいホテルの地下室を会場とし、来場者はわずか100人程度だった。

 コミックというジャンルが文化的主流から遠く離れていた時代に、「ゴールデン・ステート・コミコン(Golden State Comic-Con)」と銘打ち、当初はコミックファンたちの交流の場を設けること、そして彼らのヒーロー、つまりコミックブックの作者たちに会える貴重な機会として企画された。

 サンディエゴ・コミコンのマーケティング責任者、デービッド・グランザー(David Glanzer)氏はAFPの取材に対し「だれも現在のような大規模なものになるとは思ってもいなかった。ましてや、50年後も続いているなんて考えてもいなかった」と話した。「彼ら(初期の参加者ら)は、コミックブックというメディアを芸術として認めた最初の人々だ」

■『スター・ウォーズ』から、タランティーノまで

 その後のコミコンの成長は、ゆっくりとではあったが、動かしがたいものだ。

 コミック作品の枠を超えて映画やテレビ作品、そしてSFなどの他ジャンルにも積極的に門戸を開いていった中、おそらく決定的な転換点となったのは1976年だった。

 それは、ルーカスフィルム(Lucasfilm)の広報担当者が、公開間近だった「『スター・ウォーズ(Star Wars)』というちょっとした映画」のプロモーションのために、ポスターや映写用スライドを持たせた宣伝チームをコミコンに送り込んできたときだとグランザー氏は言う。

 そのうち、それまで週末だけ趣味でコミコンに来ていた映画会社の大物たちが、ビジネススーツに身を包み、1週間通して来るようになった。そして彼らはサンディエゴの高級レストランで、映画化権に関わる大きな取引をまとめようとした。

 90年代に入る頃には、撮影所やテレビ局は大物俳優や監督ら本人をコミコンに送り込むようになり、従来型のマスメディアもコミコンに目を向けざるを得なくなった。

 フランシス・フォード・コッポラ(Francis Ford Coppola)監督が、映画『ドラキュラ(Dracula)』のプロモーションに訪れたり、会場を歩き回る一ファンだった俳優のクエンティン・タランティーノ(Quentin Tarantino)氏が、舞台の中央で観客の前に立つようになったりした。

■姿を消したコミック書店…そして、これから

 しかし、コミコンの急成長には犠牲が伴ったと考える人々もいる。

 その昔、親密な交流があった会場には、今では疲れ果てた目をした数千人のファンがあふれている。彼らはモンスターや宇宙人、日本の漫画のコスチュームに完璧に身を包みながら、満員必至の会場に入るために夜明け前から長蛇の列をつくるからだ。

 広さ11ヘクタールのサンディエゴ・コンベンションセンター(San Diego Convention Center)をファンが埋め尽くし、あふれるほどコミコンが成長するに伴い、出展費用は増大し、数十年来の常連だったコミック書店たちは姿を消した。

 グランザー氏は「確かに多くのハリウッド関係者がやって来るが、今日のエンターテインメントは1970年のころとは大きく違う」と話し、コミコンの変遷は「あくまで健全な発展であり、多種多様な形の芸術の肯定」だと述べた。

「コミックや他の芸術形態に根差すわれわれのルーツを絶やさなければ」、コミコンは今後も安泰だと思うとグランザー氏は語った。 (c)AFP/Andrew MARSZAL