■北京との連帯示した抗議

 1989年4~6月に、北西部の甘粛(Gansu)省蘭州(Lanzhou)から南部の広東(Guangdong)省にかけて、市民たちは言論の自由を要求し、汚職に対して抗議するデモを行った。経済面での不安や私生活への政府の干渉、民主主義への願いに駆り立てられた一方で、多くの場合は天安門広場で起きていた出来事に呼応したものだった。

 湖南省の省都・長沙(Changsha)では5月17日、ウォーデンさんの推定で少なくとも2万人の学生がデモを実施。「北京でのハンガーストライキを支持」と書かれたポスターが掲げられていたという。

 当時、蘭州大学(Lanzhou University)の学生指導者の一人だった丁矛(Ding Mao)さんは、「彼ら(中国政府)が無慈悲だったゆえ、私たちは恐れなかった」「政府が学生との約束を破ったことで、私たちは打ち消し難い憎しみを政府に対して抱いていた」と説明する。

 丁さんは1989年6月4日の夜、他の学生たちを率いて黄河(Yellow River)に架かる橋へ向かい、粛々と座り込みを実施した。

 蘭州大の学生運動家だった別の人物は、「あの夜、全ての学生が眠らなかった」「彼らが発砲したとの知らせを聞いた時、私たちは激怒した」と語る。匿名を希望するこの人物は、少なく見積もっても数千人が、道路や橋、線路への軍の立ち入りを阻止したと説明した。

 漏出した米国の外交公電、中国共産党の内部告発者や、目撃者からの情報を集めた、ルイーザ・リム(Louisa Lim)氏の天安門事件に関する著書「The People's Republic of Amnesia」によると、成都での推定死者数は10~300人とばらつきがある。

 先の「The Tiananmen Papers」によると、100人超の学生が頭部を負傷して病院に搬送された他、警察が電気棒を使用して多くの人を殴打したという。

 ハッタラーさん自身の経験と友人からのまた聞きの情報をまとめたメモによれば、1989年6日10日、治安部隊は「警棒やナイフ」を使い、デモ参加者が「動かなくなるまで」手を休めなかったという。

 さらに、「地面で横になった人々や、慈悲を請う人々さえ、棒で殴られた」とも記されている。