【記者コラム】ブレグジットで岐路に立つアイルランド国境地帯
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【4月15日 AFP】英領北アイルランドに和平が訪れた時、わずか7歳だった私には、人々の30年間の暮らしぶりを物語る激しい戦闘の記憶はない。
あれから20年。私は全長500キロにおよぶ対アイルランド国境沿いを1週間かけて旅し、英国の欧州連合(EU)離脱(ブレグジット、Brexit)によってあの暗たんたる日々に逆戻りする恐れについて、地元住民に話を聞いた。
私が国境付近で目にしたのは、驚くほどの復興力を持ち、それでいて迫りくる混乱の脅威に対しては極めて脆弱(ぜいじゃく)な町の姿だった。
ビデオジャーナリストのウィル・エドワーズ(Will Edwards)氏との旅は、アイルランドの首都ダブリンにある私の自宅から始まり、そこから北アイルランドの国境の町ニューリー(Newry)を目指して北上した。
このなだらかな丘が続く田舎町を、英国軍はかつて「ならず者の土地」と呼んだ。狙撃兵や爆弾による攻撃が相次いだからだ。
ある住民は、兵士らがこの地域の地名を開拓時代の米西部にちなんで名付けたことも覚えていた。
(北アイルランド)アーマー(Armagh)州南部に、国境によって土地が北アイルランドとアイルランドに分断されている農場があった。道端には、「盗人や暴漢は、この村で対処する」という注意書きがあった。英国でこんな看板が立っている場所が他にあるとは想像しづらい。
数週間前、ダブリンにいた時、私は元アイルランド兵からこんな話を聞いた。地元住民は、英国軍が国境付近の村々の高台にあった監視塔を解体する際、丘にカメラを仕込んでいったと信じていると。
それはありそうにない話だ。だがかつて日常的に監視の目にさらされていた地域には、他にもトラウマの痕跡がはっきりと残されていた。
後に私は、北アイルランドは世界で最も心的外傷後ストレス障害(PTSD)の人の割合が高いという記事を読んだことを思い出した。
北アイルランドではどこでも、過去についての話が語られる時、毒のあるユーモアとストイシズムが入り交じる。
2度、暗殺の標的になったことのある男性から、「ザ・トラブルズ(The Troubles、北アイルランド紛争のこと)」がどのようなものだったかを聞き出そうとした時には、彼は最後にようやく「ちょっとうんざりする時もあった」と明かした。
私は、地元住民らに国境管理の復活についてどう思うかと聞いてみた。すると、検問所に関する協議は真っ赤なうそだと信じている人や、かつてそうだったように日を追うごとにうまく対応できるようになるだろうと考えている人もいた。
1998年のベルファスト合意(Good Friday)は、国境そのものを、地図には存在するが目では見ることのできない奇妙なグレーゾーンに変えてしまった。
訪れた人は、舗装道路のゆがみや速度標識がマイルからキロに変わったのを見て、別の国に入ったことがわかる。
今回の旅では何度も、どこまでがその国でどこからが次の国なのか、インターネットで確認しなければならなかった。
私の身の上も、英国とアイルランドを隔てる曖昧な境界線のどこかにある。
私は先月、アイルランドの市民権を得るための申請を行った。英国生まれでアイルランド人の祖父母を持つ私には、ブレグジット以後もEU市民でいられるパスポート(旅券)の所有が認められている。
私も今、二つの国にまたがる場所で懸命に故郷を見いだそうとしている。
このコラムは、アイルランドと北アイルランドで取材を行うジャーナリストのジョー・ステンソン(Joe Stenson)氏が執筆し、3月11日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。