【記者コラム】地球上で他にないサミット、パプアニューギニアAPEC首脳会議
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【3月21日 AFP】私はこれまで多くの首脳会議(サミット)を取材してきた。ギリシャ財政危機のときには、欧州連合(EU)のリーダーたちがユーロ救済のために奔走する中、ベルギー・ブリュッセルの息苦しいEU庁舎で徹夜作業をしながら眠気と闘っていた。
スイス・ダボス(Davos)の雪山では、各国の大統領や首相、ビジネス界の重鎮らが、シャンパンとカナッペを手に天下国家を論じる中、私はその豪勢な集まりを楽しんでいた。
最近では、北朝鮮と韓国の首脳会談に感激し涙をこらえる地元の人々の姿を目にし、そのわずか数か月後にはシンガポールで行われたドナルド・トランプ(Donald Trump)米大統領と金正恩(キム・ジョンウン、Kim Jong-Un)朝鮮労働党委員長による歴史的な握手の瞬間を目撃した。
だが、パプアニューギニアの首都ポートモレスビー(Port Moresby)で開催されたアジア太平洋経済協力会議(APEC)サミットは、これらとはまったく異なる実にユニークな経験だった。
■カジノのあるクルーズ船
宿泊先の話から始めよう。
貧困にあえぐポートモレスビーの住民の大半は、今にも崩れそうなスラム街に住み、ぎりぎりの生活を送っている。高級ホテルの誘致を求める声はほとんど上がらない。
しかも、強い日差しが照りつけるほこりっぽいこの街は、無法地帯としても悪名高い。巧みなマチェーテ(なた)さばきで恐れられている「ラスコル」と呼ばれるストリートギャングたちが、手当たり次第に金品を強奪し、人々を襲い、自動車を乗っ取っていると報じられている。
これら二つの理由から、ジャーナリストや各国の代表団は、通常のサミットで利用されるビジネスホテルではなく、湾に停泊した3隻の巨大なクルーズ船に宿泊することになった。
このクルーズ船会社は「地球上で他にない場所」をモットーとしており、船内には甲板での輪投げ遊びから「プレーヤーズ」という名のカジノでのブラックジャックやルーレットまで、クルーズ船のあらゆる施設がそろっている。
サミットでストレスのたまる1日を過ごした後、宿泊者らは、3種類あるサウナかジャクジーからどれかを選んだり、あるいはサンデッキにあるプールに飛び込んだりできる。
夜は通常、数あるレストランのどれかで過ごすが、メニューが豊富で無料のビュッフェを利用することが多かった。その後は「コネクションズ」や「オリエント」といった名前のバーで寝る前に一杯やり、チルアウトジャズから「ホテルカリフォルニア(Hotel California)」を大音量でかき鳴らすバンドまで、幅広いジャンルのライブ音楽で一日を締めくくる。
なかなか素敵な経験に聞こえるかもしれないが、私たちは時折、いつでも好きな時にチェックアウトはできるが、決してここから立ち去ることはできないような気持ちになった。
私たちは、とりわけ日が暮れた後は、絶対に1人で外出してはいけないと指示されていた。
こうしたサミット取材の最大の楽しみの一つは、仕事が終わった後、取材班の仲間たちと地元のレストランやバーをのぞきに行くことで、たいていはその土地をよく知るAFP支局長が案内してくれる。
だがポートモレスビーはAFPがまったく支局を持ってこなかった数少ない首都の一つで、そのためこのサミットでは、クルーズ船「パシフィックジュエル(Pacific Jewel)」号と国際メディア用のプレスルームが設置されていた市内のアクアティックセンターとの間をひたすら往復するだけとなった。
■「直行バスですか?」
もしも、たどり着ければ、直行バスと言えるだろう。
このAPECサミットはパプアニューギニアにとって国際舞台へのデビューだったが、21か国以上の代表団と国際メディアの受け入れに伴う輸送システムの運営に、この国は明らかに苦心していた。
サミット前の話題の大半は、各国首脳らの送迎に使うイタリアの自動車メーカー、マセラティ(Maserati)の高級セダン40台の購入が、何万人もがその日暮らしをしているこの街に強いる経費にばかり集中していた。
だがそうして巨額を支出はしたものの、交通の混乱は日常茶飯事だった。安倍晋三(Shinzo Abe)首相は、彼を迎えるパプアニューギニアのピーター・オニール(Peter O'Neill)首相が到着するまで、5分以上も車内で待たされた。
私は東京を拠点にしているが、日本では地下鉄に乗る時でさえ、そんなに長く待たされることはない。ましてや首相を待たせることなどあり得ない。
パプアニューギニア当局は、中国からの資金援助を受けて購入した真新しいバスで、市内を移動するジャーナリストや代表団を絶え間なく輸送できると誇っていたのだが、遅延や問題が数多く報告されていた。
AFP取材班が「プレスセンター行きの直行シャトルバス」に乗ったところ、国会議事堂と国立博物館を経由されたこともあった。ドライバーに頼み込み、どうにか空港を経由することだけは避けられた。
バスはようやく目的地を目指したが、インタビュー開始の2時間以上も前に出発していたにもかかわらず、私たちは深刻な遅刻の危機にさらされていた。丘を猛スピードで下ったせいで、バスのフロント部分は完全に壊れてしまった。
結局、約5キロの道のりに1時間半以上もかかってしまった。
別の日にまた「プレスセンター行きの直行バス」に乗ったときには、隣に停泊していた別のクルーズ船乗り場へ連れて行かれ、その後、元の場所に戻って来てしまった。
交通だけではなかった。経験豊富なサミット開催国にとってはありふれたちょっとしたトラブルが、初心者のパプアニューギニアにとっては大問題になっていた。
首脳とその伴侶たちの「家族集合写真」は、撮影が遅れた。フォトグラファー用の照明が用意されていないことにある代表団が気付いたとき、辺りは真っ暗になっていた。関係者がホテルの周りを探し回った結果、仮設照明が一つ見つかったが、撮影された写真は完璧とは程遠かった。
それから、米国のマイク・ペンス(Mike Pence)副大統領が出席する調印式の開始数分前になって、パプアニューギニアの眼光鋭い当局者が、自国の国旗が逆さまに掲揚されていることに気付いた。
この一件は、苦境にある一国の国際的な立場を象徴するようだった。とりわけこの式典は、電力がない状態で生活している数百万のパプアニューギニアの人々に電力を供給するプロジェクトに関わるものだっただけに不運だった。
■パプアニューギニアが差し伸べてくれた「支援」
サミットによって輸送システムの脆弱(ぜいじゃく)さが露呈されはしたが、それに対する不満を和らげてくれたのは、運営をサポートするために採用されたポートモレスビーの住民数千人だった。
彼らは常に親切で、フレンドリーで、笑顔を絶やさなかった。ペンス副大統領の基調演説が始まってから2分後にネット回線がダウンした際、激怒したジャーナリストから怒鳴られても、彼らの態度は変わらなかった。
だが、サミット取材の本当の掘り出し物は、外国メディア向けセンターになっていた無味乾燥な体育館の中では見つからなかった。ポートモレスビーに支局を構えていないAFPは普段、豪シドニーからパプアニューギニアのニュースを追っている。そのため今回は、記事先頭の日付欄にめったに地名が登場しない場所から発信する絶好の機会となった。
そういうわけでAFP取材班は、地元の運転手と「仲介役」を伴って、ポートモレスビーの真の姿を伝えるために街へと繰り出した。そこはまるでサミットからは、100万海里も離れた場所であるかのようだった。
私たちは市場や地元のコミュニティー、ショッピングモールなどを訪ね、少数民族の人々や主婦、通行人などに話を聞いた。パプアニューギニアでは800を超える種族の言語が使われており、さまざまな人にカメラに向かってコメントしてもらうと、そのことが短時間で瞬くうちに明らかになった。
私たちは行く先々で温かく歓迎された。彼らは外国メディアが自分たちに興味を示すとは思っていなかったようで、たちまち人だかりができた。今回のサミット取材の中で最も興味深い存在は実は彼らなのだということを、彼ら自身は全く気付いていなかった。
最悪の事態を予感させる警告を受けていたにもかかわらず、どんな場面でも恐怖や危険を感じることはなかった。確かに私たちは、日が沈んでから街に繰り出すことはしなかったが、パリの一部や自分の生まれ故郷のロンドンを夜間にぶらついた時の方がよほど緊張した。
私たちが出くわしたのは、歯を見せてにっこり笑う地元の住民たちだった。彼らの歯は、ビンロウの実を常にかんでいるせいで赤く染まっていた。ビンロウの実は、ここでは至る所で入手できるが、大半の国々では麻薬として禁止されている。彼らは、苦しい生活を送る自分たちも、少しでいいからAPECの恩恵にあずかりたいと私たちに訴えた。
私たちは、海底に打ったくいの上に立つ家々数千棟が沖の方まで広がる貧しい集落も訪れた。そこでは、ぐらぐら揺れる木の板が「道」の役割を果たしており、ほぼすべての家屋の前で、ブタをおりに入れて飼っていた。
EUサミットや20か国・地域(G20)サミットでは、こうした経験はできない。
私たちの乗ったバスが博物館で故障した時、助けてくれたのは地元の花売りの女性だった。彼女は、私たち取材班と大量の撮影機材、それに同じく足止めされて困っていた中国人ジャーナリストをまとめて自分のトラックに乗せ、目的地まで運んでくれた。中国の資金援助によるバスが故障したそのとき、パプアニューギニアが手を差し伸べてくれ、私たちは数分の余裕を持ってインタビューに臨むことができた。
輸送システムの混乱に関する記憶は、時とともに別の多くのサミットの記憶と混ざり合ってしまうかもしれない。だがパプアニューギニアの人々の温かさはいつまでも記憶に残ることだろう。
私は多くのサミットを取材してきたが、ポートモレスビーのAPECでのような経験は一度もない。私たちの誰かが、今後そうした経験ができるかどうかも疑問だ。
このコラムで使用した主な逸話については、AFPのAPEC取材班から協力を得た。
このコラムは、AFP東京支局のリチャード・カーター(Richard Carter)副支局長が執筆し、2018年11月26日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。