■医師会の怒りを買い、不遇の死

 しかし、ゼンメルワイスは称賛を受ける代わりに、ウィーン医師会の重鎮らの怒りを買い、1849年に病院勤務の契約を打ち切られた。キューエンブルク氏は、「当時、医師らの自己評価は非常に高かった。彼らは当然、ひどい産婦死亡率の原因が自分たちにあったという考えを受け入れられず、憤激したのだ」と語る。

 パスツールが「細菌」の存在をついに証明できるようになるまで、まだ四半世紀が必要だった。

 キューエンブルク氏によると、他の医師は証拠を示せと要求した。彼らは「ゼンメルワイスが正しいはずがない。病原体を示すことができないのだから、彼の説はうさんくさい」と退けた。

 同僚の医師らを「人殺し」とまで呼んだゼンメルワイスの激しい気性と立ち回りのまずさも、不利に働いた。晩年、ゼンメルワイスの精神状態は悪化し、1865年に47歳で精神病院で死亡した。