初めて兵馬俑を見た時の状況について、趙氏の手記には次ように記されている。

「井戸の掘削を担当していた農民が、出土した秦時代のレンガを私に見せた。その足で、井戸のある場所まで向かう。しかし現場は荒廃していて、周囲では破片がバラバラに見つかった。頭部の一部が木の上にかけられていたり、麦畑には胴体部分が立てかけられていたり。農民の帽子を頭部にかぶったその姿は、まさに『かかし』そのものだった」

 趙氏は現場を片付けた後、3台のリヤカーで破片を回収し、作業場所まで運んだ。その日の夜のうちに発掘したすべての破片を分類して並べ、破片の断面を水で洗浄し、エポキシ樹脂の接着剤でくっつけ、破損か所は石こうで補った。3日かけて2体を修復し、その最初の「兵士」を「秦代武士俑」と初めて命名した。

 李美侠(Li Meixia)さんは、趙氏が臨潼博物館館長時代に陳列部主任を務め、2000年ごろに定年退職した。趙氏とは20年以上、仕事を共にしてきた。趙氏の訃報を聞いたとき、とても辛かったと話す。

「私は今でも趙館長が一人文化財倉庫の中でしゃがみ込み、数千個の破片とにらめっこしたり、修復してたりしている姿が思い浮かぶ。館長は一度しゃがみ込むと、半日ほども座り込んだままになる。イスを差し出しても座ろうともせず、文化財に夢中になっていて、我を忘れているようだった」

 敬慕する趙氏について語り始めると、李さんの目には涙があふれた。「趙康民は、本当にその一生を考古学に捧げた人だ」と言った。

 臨潼博物館職員の携帯電話には趙氏の写真が多く残っているのを、取材を通して知った。趙氏は40年もの間、考古学一筋に尽くし、博物館をわが家のように思い、考古学を大事な事業としてみていた、というのが職員らの印象だ。晩年にも臨潼博物館の発展のことを考え、努力をたゆまず、研究や書籍などの執筆を続けていた。(c)東方新報/AFPBB News