【4月17日 AFP】その兵士がカメラのボタンを押して中の写真を消去した瞬間、私は意気消沈した。これで私はまったくの手ぶらで帰らなければならなくなった。無事ここを脱出できるのかどうかも、何を考えているのかまったく読めないその兵士たち次第だった。

 私はパキスタン北端の一角にあるこの小さな拠点に3日間、足止めされていた。計画は壮大だった。地球上の最果ての地の一つ、世界最高峰の山々に囲まれた禁断の渓谷であるワハン回廊(Wakhan Corridor)を踏破するのだ。それは子どもの頃から思い描いてきた夢で、たくさんの根回しと計画を経て、ようやく上司から取材許可が下りたところだった。

 ワハン回廊は古代の貿易路、シルクロード(Silk Road)の一部だった。回廊へ向かって登る過酷な道程に入る手前、人間が陣取る最後の野営地に着いたところで、私はこの検問所にいた兵士たちによって止められた。

 彼らは私の身元について、パキスタン北部の町ギルギット(Gilgit)にいる自分たちの上司に照会する必要があると言ったのだが(すでにその町で私はパキスタンのさまざまな情報機関から身元についてしつこく質問されていたのだが)、通信機材が故障していたために、私は足止めを食らったのだ。

(c)AFP

 時間をつぶしている間、私はキルギス人の貿易商の一行にインタビューを行った。私が育った30キロほど南にあるフンザ渓谷(Hunza Valley)に彼らが夏にやって来たときに知り合ったのだ。もしも兵士がこれ以上先に進ませてくれなかったら、物々交換によるこの地域の交易に関する記事を書いて自分を慰めようと思っていた。だが、その記事に使おうとした写真さえをも、この兵士たちは消してしまったのだ。

 抗議することも考えたが止めておいた。彼らは写真撮影が許可されていない国境地帯の検問所の兵士だ。彼らは私のバックパックの中身を靴から靴下から下着、たばこに至るまですべて出してテーブルの上に広げ、それを撮影した。彼らが私をどうしようと考えているのかは、神のみぞ知る、だった。私は恐怖を感じつつ、あらゆる事態を覚悟した。

 だから、中身が空になったカメラを兵士から返されたときの私の驚きを想像してほしい。「ここでは写真撮影はできない。だが、ワハンに入れば何でも好きに撮っていい」。私の心臓は高鳴っていた。

 そこで問題が生じた。

 ルートは分かっていたし、必要な準備もすべてしてあったのに、兵士は私に1人で行ってはならないと言う。地元の貿易商人の誰かをガイドに付けなければならないというのだ。天気のことを考えると、これは難題だった。

 この日早く、ワハンの玄関口に当たる標高4968メートルのイルシャド峠(Irshad Pass)周辺は暗い雲に覆われ、雪が降り始めていた。この峠では悲惨な事故のほとんどが10月に起きていたため、地元の人々は10月の雪を不吉の前兆と捉えている。取材したキルギス人の貿易商たちは前日出発するとき、まるで世界中の男たちがサッカーチームのどの選手が試合の中でいつゴールするかを予想するような軽い口ぶりで、雪崩に遭いそうな場所について語っていた。

イルシャド峠へ続く10月の荒涼とした雪道。(c)AFP/Gohar Abbas

「やめた方がいい、今行くのはばかだ。10月の雪なんだから」。彼らに一緒に行ってくれないかと頼むと、こう言われた。最終的には私の妻の遠い親戚に当たる商人が、300ドル(約3万2000円)で同行することに合意してくれた。

 雪は降っていた。イルシャド峠へ向かって出発する私たちを見ながら、貿易商たちは首を横に振っていた。私と同行してくれることになったアフザル・ベイグ(Afzal Baig)氏、それから荷物を運ぶ馬1頭。何年も頭の中で描き続け、何か月もかけて根回しをしてきた旅へ、ついに出発したのだ。

■子どものころの夢

 ワハン回廊への旅は、パキスタン北部のフンザ渓谷で育った幼い子ども時代から夢に見ていた。

 父と祖父には「うちの家族はあそこから来たんだよ」と聞かされた。私はアフガニスタン北東の端から突き出た狭い渓谷に思いをはせた。

子どもの頃の夢を形作っていたもの──ワハン回廊。(c)AFP/Gohar Abbas

 だが、できることと言えば想像することだけだった。ワハン回廊はアジア有数の高峰ヒンズークシ(Hindu Kush)山脈、カラコルム(Karakoram)山脈とパミール高原(Pamir Mountains)の三つに囲まれた、世界の最果ての地の一つだ。

 非常に遠い上に、1年のうちでも渓谷に入るルート上の雪が解ける何か月かの間しか行くことができない。そしてあまりにも辺境であるため、そこに住む人々の大半は、アフガニスタンを20年以上にわたって支配していた旧勢力タリバン(Taliban)の名前さえ聞いたことがない。

 私のようなすべてのワヒ(Wakhi)人の祖先は、現在約1万2000人が暮らすこの荒涼の地から、かつてやって来た。だから、伝説のようなワハン回廊の話を聞くたびに私は、それはどんなところなのだろうと想像を膨らませた。

 心をひかれた理由の一つは、自分自身が生まれ育ったパキスタンでは少数民族のワヒ人であることだった。女性との接し方から酒についてまで、私は周りの人々や彼らの習慣になじめないことが多い。

「まるで違う国にいるみたいに感じていた」のだ。

 ワヒ人はタジキスタン、アフガニスタン、中国、パキスタンにまたがるパミール高原に散って暮らしている。子どものときはフンザも周りの町もワヒ人ばかりだから違いをそれほど感じなかった。皆がワヒ語を話し、イスラム教のイスマイル派を信仰していた。

 しかし、カラチ(Karachi)の大学に行くと、否が応にも違いに気付いた。私の故郷では、男子も女子も一緒に勉強していたし(我々の慣習では、男子と女子が1人ずついて1人分の学費しか出せない場合には、女子に勉強させる)、女子はスカーフで髪を覆わなくてもよかったし、礼拝所では男女が一緒に祈っていたし、ムアッジン(礼拝の時刻を大声で告げる係)はいなかったし、自家製の酒を飲むのが習慣だった。

 ところが私は朝、ムアッジンの声で起き、女子が1人もいない教室で勉強するようになった。街中の女性たちはスカーフで髪を覆い、モスクでは男性は男性だけで礼拝し、飲酒は厳しく禁じられていた。まったく違う国に来たように感じたのだった。

 自分の居場所だと感じられる、ワハン回廊を見てみたかった。子どもの頃はいつもワハンから来ていた商人たちを目にしていた。彼らはルートが通れる時期にヤクやヒツジを連れてフンザまで下りてきて、食料やその他色々必要なものと交換していたのだった。

 うちの家族をはじめ皆、彼らが貧しいと分かっていたし力になりたかったから、いつも彼らから何かを買うようにしていた。10月になると貿易商たちが連れてきたヤクを殺し、さばいた肉は15人ほどの大家族で3月ごろまでもった。

ワハンで放牧されるヤク。いずれは食料や日用品と物々交換される。(c)AFP/Gohar Abbas

 カラチの大学を出てジャーナリストになると、ワハン回廊に対する個人的な好奇心に、プロとしての関心が加わった。ワハンはアフガニスタン随一の辺境の地であり、外界で通常聞くさまざまな場所とはあまりに違い、それについて書くことがジャーナリストとしての夢になった。

 ワハン回廊の旅への追求に弾みがついたのは、2016年だ。フンザの家族の下へ帰ったときに貿易商たちから、ワハンに中国軍の部隊がいると聞いたからだ。これぞ私の出番、まさにニュース性があった。しかし上司に提案すると、彼女からは厄介な答えが返ってきた。AFPはアフガニスタンの首都カブールに支局があるので、アフガニスタン国内のことについて何か書く場合はそちらに最初の権限があると言うのだ。

 だが私にとっては運良く、周辺の治安状況が悪すぎて、カブールのAFPチームがアフガニスタン側からワハンに入ることは不可能だった。イスラマバード側の上司たちも、ワハンまでのルートにはどこに危険が潜んでいるか分からないと言って、やはり治安と安全に関して心配したが、「私はあの地域をよく分かっている。私はワヒ人でワヒ語を話せる。何の問題もなく到達できる。素晴らしい記事になる」と言って、彼らを説得した。最終的に支局でのすべての調整はうまくいき、ゴーサインが出たが、そのときにはすでに11月だったため、イルシャド峠はすでに閉鎖されていた。峠が次に開く翌年の夏まで、待たなければならなかった。

 2017年、豪雪と雪崩の危険性があったために、峠開きは例年よりも1か月遅かった。私が出発したのは9月末、約2週間の旅を想定していた。

■ルーツへの困難な道

 案内役のアフザル・ベイグ氏と私がイルシャド峠へ向かって出発すると、一歩進むごとに雪の降りはどんどん激しくなり、その夜は峠のふもとでキャンプをしなければならなくなった。翌朝5時に起きた時も降りが弱まる気配は一向になかったが、私たちは峠へ向かって上り始めた。

ワハンへ向け、旅を先導する商人のアフザル・ベイグ氏。(c)AFP/Gohar Abbas

 先頭がアフザル、続いて彼の馬、一番後ろが私だった。前方は数歩先までしか見えなかった上に、サングラスに付着した雪が解けて状況はますますひどかった。しかしこうした高地では、雪眼炎は現実に非常によく起き得るので、サングラスは外してはならなかった。

ワハンへの道中、前を見て歩こうとする記者コラム筆者。(c)AFP/Gohar Abbas

 スケジュールはだいぶ遅れ、イルシャド峠の頂上に着いたところで日が暮れてしまった。そのまま安全に夜を明かせる場所はなかったため、私たちは暗闇の中、反対側の険しい斜面を下りるしかなかった。私は一歩進むたびに、10月の雪は不吉だと言っていた商人たちの警告を痛いほど思い出していた。

 私たちは暗闇の中をさらに8~9時間、下り続け、ようやく雪崩の危険がなく安全だと思える場所を見つけた。テントを張ったが、やまない雪が降り積もってはテントを圧迫し続けていたため交代で寝ることにし、片方が寝ているときは片方がテントを見張った。

テントで暖を取る。(c)AFP/Gohar Abbas

 翌日は15時間近く歩いた。休憩をとったのは、麺を食べたのとたばこを吸った2回だけだった。私はイスラマバードで中国製のパーカーとブーツを売った店員を呪っていた。両方とも防水加工がしてあるはずなのに完全にびしょぬれで、私は寒さで震えていた。

 そして2晩目に、たき火で靴と靴下を乾かそうとして両方とも焦がしてしまった。次の朝は焦げてしまったブーツから水が浸み込まないよう、靴下の代わりにプラスチック袋を足に巻いて歩き始めた。ワハン回廊に到達した時の私は、そういうひどい状況だった。でも私は「故郷にやって来たぞ」と思った。現地の住民が幾人か私たちの方へ寄って来た。旅の苦難はまるで悪夢だったかのように溶け去っていった。

小川を渡る準備をする商人のアフザル・ベイグ氏。(c)AFP/Gohar Abbas

熱い麺で温まろうとする記者コラム筆者。(c)AFP/Gohar Abbas

■未開の美

 4人の女性が寄って来た。最初、握手を交わしたときはよそよそしかったが、私がワヒ語を話し始め、私も彼らの仲間なのだということが分かると、手にキスをされ、取り囲まれ、質問攻めに遭った。「向こう側の人たちはどうしているのか、何が起きているのか、あなたの両親はどうしているのか、プラスチック製のボタンは持ってきてくれたか?」

 ワヒ人の男性は夏になると交易をしに出かけるが、女性たちは生涯ここで過ごす。だから困難で単調な暮らしの中に、半分しかワヒ人でない私のような見知らぬ人間でもよそ者が現われると大騒ぎになる。それから数時間、私は彼女たちとあらゆることを話した。向こう側では人は車に乗っていて、機械を使って料理をし、たき火は使っていないこと(たき火を使わずに料理をするということは、彼女たちにとって完全に謎なのだった)。彼女たちは化粧はまったくしていないが、ボタンを飾りにしたり、時々通りがかる商人たちからジュエリーを買ったりしている。

ワハン回廊で、家族写真を撮るためにポーズを取るワヒ人一家。(c)AFP/Gohar Abbas

 外界とのつながりがないワハン回廊は、まるで天国と地獄が一つになったようなところで、その眺望はめまいがするほどだ。雪を抱いた山々に四方八方を囲まれ、赤い草原の上に何百頭ものヤクがいて、静寂が広がる。しかしその景観の美しさとは裏腹に、年間300日以上が氷点下まで気温の下がるこの地での生活は過酷だ。

 家はたいてい泥でできているか「ユルト」という移動型のテントで、1軒1軒の間は遠く3キロほど離れており、各世帯が小さな村程度の広さの土地を持っている。そのため家畜を飼いやすく、それぞれの家にヤク、ヤギ、ヒツジが数匹ずついて別々の群れになっている。

 貨幣は存在せず、皆が物々交換をしている。暖かい帽子3個とヒツジ1匹、茶葉10キロあるいは小麦粉5キロとヤク1頭といった具合だ。夏になると男たちは回廊を出て、私の地元のような町へ行き、家畜と食料や衣料品といった必需品を物々交換する。冬になると男たちは日中、家畜の群れを放牧し、日が暮れると家に戻る。その間、女たちが家のことを引き受けている。

 ご想像通り、こうした環境の下では新鮮な空気以外、誰も富を持っていない。しかし、彼らのもてなしにはとにかく圧倒される。延々とおかわりのお茶を注いでくれ、自分たちの蓄えがなくなってしまうにもかかわらず、手元にある最上の食べ物を出してくれる。客人はめったにないようだが、彼らは最高の食べ物でもてなされる(実際、観光客は時々来るようで、私が滞在している間にはワヒ人のガイドを連れたイタリア人女性が訪れていたし、数週間前にはナショナル・グラフィックの取材班が来ていたと聞いた)。

 住民は誰も自分たちの年齢を分かっていない。彼らは自分が生まれたときのことを何年、といった風には話さない。「彼が生まれたときに」、うちのヤクが2頭死んだとか大雪が降ったと言う。

自宅で義理の娘と食事の用意をするスルタン・ベギウムさん(左)。(c)AFP/Gohar Abbas

 ワハン回廊に至るまでの場所にも名前はない。事故が起きた場所を暗い調子で語る。「カリムが事故に遭ったところだ」とか、「カーンが死んだ場所だ」といった具合である。

強盗も犯罪も警察もない。自然環境は厳しく、1人で生き延びるのは不可能だ。他人の助けが要る。だから一緒にやっていくしか選択肢はない。私が聞いた中で最も深刻な「犯罪」は、言い争いの中でひどい言葉を使ったというもので、原因はたいてい家畜のヤクが他人の土地の草を食べたことだという。だから、ここで誰かと誰かが「戦った」と言えば、それは激しい口論のことを意味する。過去40年間、アフガニスタンの他の場所がくまなく戦いに飲み込まれてきたことを考えると、驚くべきことだ。ここの人間は誰もタリバンとは何者かを知らない。1979年に旧ソ連がアフガニスタンに侵攻し、ムジャヒディンと呼ばれるイスラム戦士たちが反撃したことについて彼らが唯一知っているのは、ワハン回廊の反対側へやって来たソ連兵たちが、ただでたばこを配ったことがあったことだけだ。

ワハン回廊にあるユルトに入る少数民族キルギス人の男の子。ワヒ人同様、荒涼の地で暮らすキルギス人もいる。(c)AFP/Gohar Abbas

 薬はほとんどないので、殴り合いのような身体的なけんかはめったにない。けがをすれば、それは致命傷になりかねないので、一切避ける方が良いのだ。

 病院はない、医者はいない、薬はほとんどない。多くの女性が出産の際の合併症で亡くなっている。子どもたちは、ちょっとしたインフルエンザのような病気でも死んでしまう。こうした過酷な土地では死も生活の一部ではあるが、一つ一つの死が非常に鋭い痛みとして感じられる。

 生存するための闘いの中で生活の一部となっているのは、アヘンだ。1日の終わりには皆がアヘンを吸う。楽しみで吸う者もいれば、愛する人を失った悲しみを忘れるために吸う者や、退屈しのぎに吸う者もいる。子どもたちも9歳か10歳から吸い始め、全員が中毒になる。

一日の終わりにアヘンを吸いリラックス。(c)AFP/Gohar Abbas

 渓谷を後にするとき、私は素晴らしい満足感を感じていた。子どもの頃から私の心を捉えてきた場所を訪れ、ついに夢をかなえることができたのだ。予定していた2週間の滞在は4週間になったが(私の前に出発していたキルギス人の貿易商たちも結局そうなった)、その価値が十分にあった。私たちは先にフンザから到着していた貿易商たちと帰ることになった。来た時と同様、帰路も厳しかったが、今度は2人きりではなく18人いたので行きよりも楽に感じた。

 だが、今回の訪問には極めて大きな悲しみもあった。現実は私の子どもの頃の想像とはまったく異なっていたからだ。私が目にした貧困、そして時代からの遅れ方は私のいかなる想像をも超えていた。泥の家、汚れて破れた服。私がたばこの空箱を投げ捨てるたびに人々はそれを拾い、おもちゃとして子どもに与えていた。

 それはワハン回廊の地獄の側面だ。それと鮮やかなコントラストを描いて、人生の辛さを和らげるアヘンのように眩惑的な自然の美の中で、温かいもてなしの心を持つ人々が生き抜いている。

このコラムはパキスタン・イスラマバードを拠点に活動するジャーナリスト、ゴハー・アッバス(Gohar Abbas)氏が、AFPパリ本社のヤナ・ドゥルギ(Yana Dlugy)記者と共同で執筆し、2018年2月21日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。

(c)AFP/Gohar Abbas