【3月21日 AFP】ナチス・ドイツ(Nazi)によるホロコースト(Holocaust、ユダヤ人大量虐殺)のオーストリア人最年長の生存者マルコ・ファインゴールド(Marko Feingold)さんは、「アンシュルス(ナチス・ドイツによるオーストリア併合)の前でさえ、オーストリア人は下襟の下にナチスの象徴をしのばせていた」と語る。

 まもなく105歳になるファインゴールドさんは、AFPの取材に応じ、1938年3月のアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)によるオーストリア併合や、反ユダヤ主義が戦後もはびこり続けた背景について、時に衝撃的な記憶の数々を語った。

「反ユダヤ主義は、1920年代にはすでに顕著に表れていました」「しかし、(1930年代のオーストリア・ファシズム体制下の首相)エンゲルベルト・ドルフース(Engelbert Dollfuss)とクルト・シュシュニック(Kurt Schuschnigg)によって極度の貧困状態に陥ったため、オーストリア人の80%がアンシュルスを歓迎するようになったのです」と、ザルツブルク(Salzburg)にあるユダヤ人コミュニティーの代表であるファインゴールドさんは当時を振り返った。

 ファインゴールドさんは貧困から逃れるため、1930年代にイタリアに転居した。しかし1938年3月13日、ドイツ軍がオーストリアの首都ウィーンに意気揚々と進軍した際、ファインゴールドさんは偶然そこに居合わせた。

 ファインゴールドさんを取り巻く状況は、にわかに悪化した。「(ナチスの秘密国家警察)ゲシュタポ(Gestapo)が父親を逮捕しにきた。父は政治的活動を行った容疑で、名簿に名前が載っていた。父が不在だったため、彼らは私と弟を連れて行った」

 兄弟は5日間暴行され続けた末、直ちに出国することを条件に解放された。その後、2人は各地を転々としていたが、チェコ・プラハに滞在中に再び逮捕され、1940年にアウシュビッツ・ビルケナウ(Auschwitz-Birkenau)強制収容所に収容された。

「私は3か月しかもたないと言われた。実際、2か月半が経った時、私は極度の疲労で死ぬ寸前までいったが、かろうじてノイエンガンメ(Neuengamme)強制収容所に移送された」

 ファインゴールドさん、あるいは収容番号11996は、そこからドイツのダッハウ(Dachau)へ送られ、さらにはブーヘンバルト(Buchenwald)に移送されると、建設労働者として生き延びた。

 しかし1945年4月に同強制収容所が解放されても、直ちにウィーンへ戻ることはできなかった。「その施設には、28か国の人々がいた。オーストリア人以外は全員、そこから出て行くことができたが、われわれは5月までブーヘンバルトにとどまっていなければならなかった」