【10月2日 AFP】ジークムント・フロイト(Sigmund Freud)は文筆家か、あるいは心理学者か? この問いに対し、ノーベル委員会(Nobel Committee)は、「どちらでもない」と断じ、オーストリア出身の精神分析学の父を冷遇しただけでなく、その功績すら批判した。

 1915年に米神経学者ウィリアム・アランソン・ホワイト(William Alanson White)によって初めてノーベル医学賞にノミネートされたフロイトは、英ロンドン(London)で死去する前年の1938年までに、計13回ノーベル賞候補に上った。そのうち12回は医学賞、残る1回は文学賞だった。

 1937年には、ノーベル賞受賞者を含む著名な科学者14人もがノミネートを支持したが、その努力が実ることはなかった。フロイト自身はコペルニクス(Copernicus)やダーウィン(Darwin)と比較されることを好んだという。

 フロイトの伝記「フロイト:同時代と現在(原題:Freud, In his Time and Ours)」を執筆したエリザベス・ルディネスコ(Elisabeth Roudinesco)氏はAFPの取材に対し、フロイトは非常に早い時期から「自分がノーベルの科学部門を決して受賞できないことを理解していました。精神分析学はその頃すでに科学ではないと攻撃されていたのです。彼は傷ついていました」と語った。

 1929年には、ノーベル医学賞の選考を行うカロリンスカ研究所(Karolinska Institute)のヘンリー・マーカス(Henry Marcus)教授が、科学界はフロイトの教義に疑念を抱いていると一刀両断。2006年にスウェーデンの学者ニルス・ビークルンド(Nils Wiklund)氏が発見した文書には同教授の記述が残されており、「フロイトの精神分析に関するすべての学説は、今日われわれが思っているように、大半が仮説に基づいている」、神経症の原因が幼少期に受けた性的外傷にあるとする科学的証拠は存在しない、たとえもし心的外傷というものが存在するにせよ、と述べていたことが分かった。