【AFP記者コラム】先祖の声が聞こえる─私が見た東日本大震災
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【5月2日 AFP】3月11日。日本が2011年、津波と福島第1原子力発電所事故に見舞われたその日の前後には例年、父方の先祖が自分を呼ぶ声が聞こえる。父は福島付近を本拠としていた武家の出で、毎年3月中旬になると、東北沖の海底で発生したマグニチュード(M)9.0の地震による大津波で死亡、または行方不明になった約1万8500人に思いを寄せずにはいられない。
2011年3月11日は、私がビデオジャーナリストとして初めて勤務した日でもある。動画研修を受けたばかりだった私は、同日パリ(Paris)本社に出勤し、仙台周辺の自治体が丸ごと津波にのみ込まれるテレビ映像を目にした。私はすぐさまこの大惨事の取材を志願した。
私はフランス人の母と日本人の父の元に生まれ、フランスで育った。幼少時から、姉妹と私は日本の伝統に常に触れてきた。パンの代わりに米を食べ、着物を着る機会もあったし、おじはよくパリに遊びに来た。日本とのつながりは大人になってからも途絶えず、私は日本で修士号を取得し、東京でAFP特派員として2年間働いた。
急いで帰宅し、替えの下着2セットに歯ブラシ、仏和辞典を用意した。ビデオ機材一式があるため、他のものに割けるスペースはほとんどなかった。
翌日、福島第1原発の冷却装置の停止を招いた大量の水の流れが、最初の炉心溶融(メルトダウン)を引き起こした。福島原発では、1986年のチェルノブイリ(Chernobyl)原子力発電所以来最悪となる三つのメルトダウンが発生している。私がこのニュースを最初に耳にしたのは、パリにある日本の書店にいた時だったが、その夜には日本行きの飛行機に乗っていた。
東京に着いたのは13日だった。普段なら24時間いつでも豊富な商品が並んでいるコンビニの棚が空になっているのを目にしてショックを受けた。東北の工場が停止し、流通が妨げられ、商品が輸送先に届かなくなっていた。日本の大部分にその影響が出ていた。
14日、われわれは仙台に向かう小型機に乗った。私が最初に指示されていたのは、現場上空からの写真を撮ることだった。離陸後間もなく飛行機に酔い、3時間のフライトの大半を吐き気と闘って過ごした。そこで見た光景は衝撃的だった──長い長い海岸線が、津波の被害を受けていた。空港の飛行機でさえ秩序を失っており、波の力をまざまざと思い起こさせた。
私は吐き気と強風の合間にカメラを構え、録画ボタンを押した。曲技飛行をしているような同機から、私は奇跡的にブレのない映像をいくらかものにすることができた。AFPのソーシャルメディアアカウントに投稿されてほんの数分のうちに、閲覧回数が相当数に上った。ビデオジャーナリストとしての初仕事は何とかなった。
福島原発で二つ目のメルトダウンが発生したのはこのフライトの最中だった。爆発の映像はテレビで繰り返し放映された。被害や影響の程度は誰にも分らなかった。皆、最悪の原発災害を口にし始めていた。
三つ目のメルトダウンは翌15日の朝に起きた。米ワシントン(Washington D.C.)支局のオリビア・ハンプトン(Olivia Hampton)記者、シンガポール支局のロスラン・ラーマン(Roslan Rahman)カメラマンと私という3人体制の取材班が、津波の被災地に向かった日だ。われわれは皆、被ばくの恐れを心配していた。私は怖いと同時に覚悟もした。ジャーナリストとして、また半分は日本人の血が流れる者として、祖国が背負った苦悶(くもん)を記録して世界に伝えなければならないという、心の底から湧き上がる責務を感じた。
東京から津波の被災地に向かう道路は緊急車両専用に指定されていたため、われわれは空路秋田へ飛んだ。そこでレンタカーを調達し、被災地に向かった。その車内で読んだ国際報道機関各社のウェブサイトには、欧州の一部当局者らが、チェルノブイリ以上の原発災害になる可能性について言及し始めているという記事が出ていた。フランスは自国民を避難させるための飛行機を派遣した。われわれは不安だった、誰だって被ばくはしたくない。それでも取材を続行すると決めた。
16日の夕方、岩手県宮古市内の小さな港に到着した。壊滅的な被害を受けた通りで、車をゆっくり走らせた。われわれは最初の記事を、緊急当局者らが詰めている拠点から書いた。ある救急隊員に話を聞くと、顔面蒼白(そうはく)で不安そうな表情だった。がれきの中から遺体を収容したばかりだったのかもしれないが、彼はそれには触れなかった。ただ放射能雲で死ぬのが怖いとだけ口にした。宮古市は福島から200キロ離れているが、市民の大多数が、彼と同じ懸念を抱えていた。われわれも例外ではなかった。
心を圧迫する、目に見えない甚大被害の危険性のせいで、他の危険性については、その影響がはっきり表出しているにもかかわらず、皆ほぼ忘れたかのようだった。
その翌日も、われわれは宮古市で被災状況を取材した。冷えた空気、青空と先に降った雪のせいで、惨状が幾分和らいだかに見えた。がれきの山の中に、原形をとどめない家屋や個人の所持品を至る所で目にした──古い自転車、開いたスーツケース、屋根の上に乗り上げた車。黙示録を題材にした大掛かりな映画を撮っているかのような錯覚にとらわれた。ある時、白いフェースマスクとオレンジ色のコートを身に着けた男性が、人けのない通りに現れた。うつむいたまま、早足で歩いていた。彼の背後には、廃虚と化した街と雪をかぶった山々が広がっていた。私はこの場面をカメラに収めた。
突然、スピーカーからけたたましく音が鳴り響き、同じ指示が大音量で繰り返された。私には何を言っているのか分からなかった。音が割れていたのと、初歩的な日本語しか分からなかったからだ。
私はパニックに陥った。「全員に避難を呼び掛けていたとしたら?」われわれはがれきに囲まれており、即座には避難できなかった。携帯電話もインターネットも圏外だった。いずれにしても、放射能の雲が街を覆っていたとすれば、もう手遅れで逃れられはしなかった。怖くて仕方がなかった。死の恐怖がありありと、現実のものとしてそこにあった。
やがて気持ちが落ち着くと、住民を探して市内の被害が少ない地域に向かった。
宮古港、というよりはその残骸がわずかに残る場所でもしばらく足を止めた。海はあまりに美しく、あまりに穏やかだった。こんなにも静かな海が、死と破壊をもたらすとは想像もできなかった。
被災後、国際メディアはこぞって、悲劇に紛れての略奪や窃盗行為が皆無に等しかったことに触れ、日本人の「気高さ」を報じた。
一方で私は、日本人が持ち合わせていないと思われがちな、感情のほとばしりも目にした。青ざめた顔、うつろな目で夫の隣に立ち、自衛隊員と言葉を交わしていた女性を、私は覚えている。両腕を伸ばして駆け寄り、互いの無事を喜び笑顔を輝かせた隣人同士も覚えている。
がれきの下に息子が埋まっていると信じ、除去作業を阻止しようと重機に向かって叫んでいた女性も覚えている。何もかも失い、公衆電話センターの電話で家族に食料を無心し、きまり悪そうな笑みを浮かべていた男性も覚えている。つえをつきながらがれきの中を歩き、大きな手振りを交えながら、津波がどんなふうに街に押し寄せ、毎晩どんなふうに悪夢にうなされ夜中に目が覚めるのかを語ってくれたおばあさんのことも覚えている。
18日の金曜、AFP東京支局は用心のため大阪に移った。もう1組の別の動画取材班がいたが、家族から哀願され日本を離れた。当面、現場のAFPビデオジャーナリストは私だけになった。AFPの取材調整役から電話があり、もし私が現場を離れたいなら、もちろん理解すると言われた。不安は当然あったが、何かが私にとどまるよう訴えていた。ただ、先祖の土地を襲ったこの大惨事が、今や私の一部になりつつあることを、フランスへの帰国を懇願する家族や友人に説明するのは容易ではなかった。
われわれは宮古市から約40キロ離れた釜石市に向かった。そこはゴーストタウンと化していた。この街の被害はさらに深刻だった。巨大な貨物船が道のど真ん中にとどまっていた。道は水没し、どの家の窓ガラスも流されていた。街には死と水路が交ざり合ったかのような、鼻を突く臭いが充満していた。
住民に話を聞きに行った。漁業を営むある家族のつつましい家へ、おにぎりを持って訪れた。平時にはありふれた食べ物が、津波の後にはごちそうだった。釜石の人々は何日もの間、救助隊から支給される栄養補助食品しか食べていなかった。翌日再び同じ家族を訪ねると、あのおにぎりを隣人らと分け合って食べたのだとうれしそうに話してくれた。
白いフェースマスクを着け、がれきの中から所持品を探し出そうとしている若いカップルに出会った。2人は開いたフォトアルバムの前で足を止めた。隣人のものだと分かったからだ。それを拾い上げた2人は、自分たちの発見に大喜びしていた。
私の取材旅程は釜石までだった。自分の担当期間は終わり、複数の後継班が現地入りしていた。
フランスに戻ると、強制的に健診を受けさせられた。仏政府は、日本で放射能の漏出規模が把握されていないことを危惧していた。数週間後、診断結果が届いた。微量のヨウ素131が検出されたものの、担当医によるとこの程度であれば健康を害する恐れはないとのことだった。
昨年3月、私は再び日本を訪れた。5年前に死を目にした場所に、また命が宿っていることをこの目で確かめずにはいられなかった。津波で破壊された港には、広大な建設現場が広がっていた。しかし依然何万人もの人々が自宅に戻れず、うつやアルコール依存の発症や自殺の件数が急増していた。
私は仙台近郊の石巻市に向かった。そこで先祖に宛てた手紙を焼いた。自分だけの儀式のつもりだった。手紙が燃え上がるにつれ、心の平穏が戻り始めるような気がした。(c)AFP
このコラムは、AFPパリ本社のミエ・コヒヤマ(Mie Kohiyama)記者が執筆し、2017年4月12日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。