【AFP記者コラム】拘束され、両親を失っても、私はシリアを撮り続ける
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【10月24日 AFP】シリアの反体制派が掌握する同国北部アレッポ(Aleppo)で、AFPの記者、フォトグラファー、そしてビデオジャーナリストとして取材を続けるカラム・マスリ(Karam al-Masri)にとって、この5年間は悲劇の連続だった。政府軍とイスラム過激派組織「イスラム国(IS)」に相次いで拘束され、両親が空爆で死亡し、生まれ故郷の街が包囲され、空腹と爆撃に耐える日々。そうした中でも、彼はひるむことのない勇気をもって、自分が育ったアレッポの街の荒廃した姿を取材し続けている。(AFPベイルート支局 ラナ・ムサウイ)
■シリア、アレッポ── (文:カラム・マスリ)
2011年にシリアで革命が始まる前、私の人生はとてもシンプルだった。私はアレッポ大学(Aleppo University)で法律を学んでいた。でも今、私はすべてを失ってしまった。両親も大学も失った。一人っ子だった私が最も恋しいのは家族、父と母、特に母のことだ。母のことは毎日思い出し、夢も見る。今でも母を失ったことを思うと心が痛い。私は今、1人で生きている。誰もいない。友人もほとんどはいなくなってしまった。亡くなったか、亡命してしまった。
アレッポで爆撃が始まって以来、私の人生の目的は「死なないこと」になってしまった。ジャングルで暮らし、とりあえず明日まで生き延びようとしているみたいだ。戦闘機が飛んでくると、少しでも安全な建物に入り身を隠す。砲撃があると、下の方の階へと移る。こうして私はいつも逃げまわっている。
アレッポが包囲される以前は、ファストフード店でよく食べていたが、今は開いている店などない。料理ができない私は1日1食で済ます日も少なくなく、まったく食べない日まである。包囲の前は1日中、街に出て撮影するネタを探していた。でも包囲以降、空腹で体は弱り、家の中にいることが多い。
2011年に蜂起が始まったとき、私は20歳になる少し手前だった。その2、3月後、政府の情報機関に拘束された。丸1か月、刑務所で過ごし、そのうちの1週間は狭い独房に入れられた。ひどい経験だったが、同年の恩赦で釈放された。蜂起は最初、平和的なデモとして始まった。爆撃もなかった。拘束されたり、街でスナイパーに狙われたりする以外には恐れるものはなかった。
翌2012年の7月、アレッポは反体制側が制圧した東部と、政府軍が制圧した西部へと二分された。2013年11月、22歳になった私はダーイシュ(Daesh、ISのアラビア語名の略称)に誘拐された。乗っていた救急車から、友人の救急士とフォトグラファーと一緒に連れ去られ、どこだか分からない場所へ連行された。政府の刑務所とは比べものにならないほど、本当に、本当にひどかった。
フォトグラファーと私は半年後に「恩赦」を受けて解放されたが、救急士に幸運はめぐってこなかった。彼は55日間、拘束された後、首をはねられた。ISはその様子を撮影した動画を私たちに見せた。「友人を見てみろ。次はお前たちだ」と。私たちは恐怖で震え上がった。私はずっとおびえ続けていた。「明日は自分の番だろう、あさっては自分の番だろう」と。
あの時のことは今でも詳細に覚えている。ISに拘束されていた165日間は、記憶にはっきりと刻み込まれている。最初の45日間、食事は3日に1回だけだった。アラブの平たいパンの半分か、オリーブ3つ、あるいは卵1個だけだった。一緒に拘束されていた人たちの中に、政権側の民兵は一人も見なかった。反体制側か活動家、ジャーナリストばかりだった。
政権側に捕まったときもISに拘束されたときも拷問されたが、政権側の方がひどかった。彼らは私が誰と働いているのか白状させようとしたからだ。ISの場合、カメラを持っていた私の容疑は明らかで、尋問の必要はなかった。ISから見れば、カメラを持っているだけで「背教者」なのだ。
家族を失ったのは、2014年の初めだ。私がまだISに捕まっているときだった。私たちが住んでいた建物に、たる爆弾が落とされ、両親を含めて中にいた住民は皆死んだ。私は解放されるまで、その事実を知らなかった。友人が私を自宅に帰らせないよう制して、何が起きたかを教えてくれた。
私は1か月間、絶望の淵をさまよった。拘束されていた間、両親のことは何も知らず、解放されたときには、二人はいなくなっていた。二人はずっと私の消息に関する情報を待っていたのに、解放の喜びを分かち合うことなしに逝ってしまった。
2016年、アレッポは政府軍に包囲された。でもそれは拘束中の生活や両親を失ったことに比べれば、まだ耐えられる。
私がカメラマンになろうと思ったのは2012年、反政府デモを携帯電話で撮影してインターネットに投稿したときだ。政権側はデモの参加者は10人程度だとか、テロリストだと主張していたが、本当は何が起きているのかを伝えたかった。そこにはアサド政権をもはや望まない人々がいて、自由と民主主義、公正を求めていた。
2013年、私はフリーランスとしてAFPと契約し、撮影の腕を少しずつ磨いていった。外国のニュースチャンネルを見ながら、彼らの撮り方、アングルを学び、同じようにしようとした。
自分が記者になるとは夢にも思っていなかったが、時間と共にこの仕事が好きになっている。私はジャーナリズムに心から敬意を抱いており、仕事にはいつも誠実に臨んでいる。自分は反体制側に共感し、反体制側の支配地域に住み、反体制デモに参加してさえいたが、仕事では反体制側に立った主観的な撮影はしないよう心がけている。この仕事は神聖だと考えているし、慎重を期している。何か疑念がわいたときや、真実だと思えないようなときは、撮影しない。
外国や包囲の外のジャーナリストたちとの仕事は私にとって、メッセージを外の世界に発信する窓だ。
虐殺や爆撃、がれきの下敷きになった子どもやけが人、ばらばらになった遺体の映像が「日常」になってしまった。以前とは違い、私はそうしたものに慣れてしまった。
最初の虐殺が起きた2012年末、足を切断された男性を見た。そうした経験が初めてだった私は血を見ただけで具合が悪くなり、気絶した。しかし今や普通のことになってしまっている。
私にとって一番つらいのは、家族で住んでいた家に帰ることだ。今日まで、その勇気が出せずにいる。2014年以来、そこはアレッポの中で私が唯一避けたい、どうしても足を向けることができない地域となってしまった。そこへ行けば、以前の記憶がよみがえってくるだろう。その建物はもう破壊されていると聞いている……。(c)AFP/Karam Al-Masri
このコラムは、シリア・アレッポを拠点に活動するフリーランス記者のカラム・マスリが、AFPベイルート支局のラナ・ムサウイ(Rana Moussaoui)副支局長と共に執筆し、2016年9月26日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。協力:AFPベイルート支局、駐ニコシア動画チーム)