■「病気になったことはない」

 事故が起きたのは土曜日だった。マルケビッチさんは地元の高校で教壇に立っていた。その時は付近で発生した爆発が、町とそこに住む人々の生活を永遠に変えてしまうとは夢にも思っていなかった。

「バスや軍の車両がプリピャチ(Pripyat)に向かって走って行ったので、何かが起きたということは分かった」とマルケビッチさん。プリピャチは、チェルノブイリ原発から3キロの場所にある原発作業員らが暮らす町だ。マルケビッチさんは「私たちには誰も何も言わなかった。沈黙があるだけだった」と当時を振り返った。

 同年マルケビッチさんは、他の住人約11万6000人と共に強制避難させられた。しかしすぐに帰宅したいと思うようになり、居住禁止区域に戻る口実を考え始めた。「ある時は船乗りのふりをした。またある時は自分はオイルの配送を監視する警察官だと言った」

 このようにして居住禁止区域に入ったある時、マルケビッチさんは放射能監視所の責任者に出会った。仕事をくれるよう願い出たところその場で就職が決まり、それ以降一度もその区域から出たことはない。汚染された土地で育った野菜を何年も食べ続けているが病気になったことはないという。もっとも、「多少のリスクはあるけどね」とマルケビッチさんは認めた。