【3月22日 AFP】洋服をもっと身近なものにしたい──その目的の下、約1世紀前に東京に創設された文化服装学院(Bunka Fashion College)は、日本の女性のファッションと社会に革命をもたらしてきた。

 都心のビジネス街にそびえる地上20階建てのコンクリートの校舎は、必ずしもハイファッションを想起させる建物ではないが、国内のファッション業界で働くことを目指す人々にとって、ここは「来るべき場所」となっている。

 若々しく自信に満ち溢れ、そしてその多くが女性である文化服装学院の学生たち。ひときわ目立つ衣装を着用している学生たちからは、界隈に多く見られるスーツに身を包んだサラリーマンに溶け込もうとの意思は少しも感じられない。

「目立つのはもう慣れちゃいました」と話すのは、文化学園大学(Bunka Gakuen University)服装学部の吉野絵梨花さん。「このあたりで目立つ格好をしている子がいれば、文化の学生だってすぐにわかります」とAFPの取材にコメントした。6インチ(約15センチ)のプラットホームシューズを履き、周囲の人を見下ろす格好の吉野さん。彼女は、卒業制作のため夜通しでの作業を終えたところだった。

 現在、日本のファッションといえば、山本耀司(Yohji Yamamoto)や高田賢三(Kenzo Takada)といった世界的に有名なデザイナーの名前が挙がるようになった。2人はともに文化服装学院出身だ。だが、並木伊三郎(Isaburo Namiki)氏が同学院を創設した1923年当時は、日本女性の服装はまだ着物が一般的だった。

 文化学園大学で教えるサミュエル・トーマス(Samuel Thomas)氏は、文化服装学院について、当時の日本の女性たちに、洋服のみならず欧米の現代性にアクセスするチャンスを与えたと話す。そして、洋服では着物よりも体を自由に動かせるようになり、女性の生活に変革をもたらしたと指摘した。

 文化服装学院の成功により、洋裁の学校が日本各地に設立されるようになった。

「戦後、洋裁学校に通う女性の数が急激に増えた」と語るのは、読売新聞(Yomiuri Shimbun)東京本社編集局次長の宮智泉(Izumi Miyachi)氏。そして、「背景にあったのは、戦争で夫を失った女性の間で、洋裁の技術を身につけることは女性の自立の手段になるという考えがあったのが一因と考えられる」と付け加えた。

 山本耀司の母も戦争で夫を失った若い女性の一人だった。彼女は文化服装学院を卒業後、東京で洋品店を営んでいた。

 宮智氏によると、1947年に全国で400校だった洋裁学校は、8年後の1955年に2700校にまで増えたという。