【10月14日 AFP】私はソマリアの首都モガディシオ(Mogadishu)で生まれ育ち、幼い頃から写真家になりたいと思っていたが、国の状況のせいで学ぶ機会がなかった。

 初めて写真を撮ったときは、まだとても若かった。地元の新聞社で働いていた友人たちから教えてもらった。自分が撮った写真が初めて新聞に掲載されたのは、15歳のときだった。難民のための食事の配給センターを撮影した。地元紙に自分の写真が載ったなんて夢みたいだった。編集者からは「いい仕事をしている。モガディシオで撮り続けなさい。恐れないように努めなさい」と言われた。

 こうして、私は天職を見つけた。一つのことから次へと物事がつながり、2011年からはフリーランスの写真家としてAFPと契約している。

 モガディシオでの生活は、誰もが同じだ。その日、何か悪いことが自分に起きそうだと思いながら、朝起きる。私は今28歳だが、これまで傷も負わずに生き延びてこられたのは、かなりの幸運だ。

 だが、あまりにも多くの同僚、親類、友人たちを失ってきた。写真家として働き始めて以来、ジャーナリストの友人を30人以上亡くした。友人を亡くすたびに、自分も死んでいくような気分になる。

ソマリアの首都モガディシオの地裁の建物で、自爆攻撃が発生した後、子どもを抱えて走る母親(2013年4月14日撮影)。(c)AFP/Mohamed Abdiwahab

 ソマリアには危険がそこらじゅうにある。「報道の自由」に多くの敵がいるこの国では、ジャーナリストならばいっそう危険にさらされる。だから、いつも注意を払わないといけない。背後に、周りに誰かいないか、隣を歩いている人物は大丈夫か……。「プレス」と書かれたヘルメットや防弾ベストが役立つときには着る。だが多くの場合、職業を明かさず、カメラを隠したほうが賢明だ。たとえ町の住民のほぼ全員が私のことを知っていたとしても、だ。

 私たちはいつも、地元と外国メディアのジャーナリストたちとチームになって仕事をする。情報を共有し、お互いを保護する。

ソマリアの首都モガディシオのリド・ビーチでサッカーをする若者たち(2015年8月11日撮影)。(c)AFP/Mohamed Abdiwahab

 ソマリアでは、写真家は恐ろしい職業だ。人間なのだから、恐怖心を覚えるなというほうが無理だろう。だが、ソマリアのような紛争地で働くときは、犠牲を払わないといけない。タフでないといけない。そして、今日か明日か、その翌日か、何か悪いことが自分の身に降りかかってくることを覚悟する必要がある。

■生まれて初めて乗った地下鉄

 フランス南部ペルピニャン(Perpignan)で開催された国際フォトジャーナリズム・フェスティバルのために、私は渡仏した。特別展示された写真家25人の中の1人だった。

 ケニアに何回か行ったことを除いて、ソマリアの外には出たことがなかった。混沌、戦闘、飢餓、襲撃、流血しか知らなかった。そんな私が初めてパリ(Paris)の街中を歩いたらどんなものか、想像できるだろう。人々は皆、穏やかに職場や学校へ向かっていた。歩道脇のカフェでくつろいだり、時に急ぎ足になったり……。

ソマリアの首都モガディシオで、銃弾に倒れたソマリア人ジャーナリスト、モハメド・モハムド・ティマカデ氏の葬儀(2013年10月27日撮影)。(c)AFP/Mohamed Abdiwahab

 いつでも、どこでも、カメラを持って歩くことができた。止められたり、殺されたりする危険を冒すことなく、大統領府でも何でも撮影することができた。

 地下鉄も生まれて初めてパリで乗った。ソマリアにはこんなものは存在しないからだ。地下鉄なら早く簡単に移動できる。何でも手に入りやすく、ソマリアだったら大きな使命になりそうなことも、簡単に済ませることができる。すべてが初めての体験で、14日間はパラダイスのようだった。

 ペルピニャンでは何百人もの人々と会い、多くの取材を受けた。ほとんどの人がソマリアについてあまり知らず、私の写真に大きな興味をもってくれ、うれしかった。私の展示はモガディシオの日常、混沌や暴力の日々と、再び普通の生活が戻る瞬間の落差についてだった。

仏ペルピニャンで行われた報道写真の祭典「ビザ・プール・リマージュ」で、ソマリア人写真家モハマド・アブディワハブ氏(中央)の展覧会を訪れたフルール・ペルラン仏文化相(2015年9月4日撮影)。(c)AFP/RAYMOND ROIG

 ソマリアの写真家として参加できたことを、とても光栄に思った。主催者によれば、ソマリアのニュースは重要であるにもかかわらず、フェスティバルの27年間の歴史の中で、ソマリアの写真家による作品展示はなかったという。驚いたが、だからこそ自分の視点や見聞を伝えることは極めて重要だと思った。

 大きなステージに立ち、多くの聴衆の前で講演もした。素晴らしい経験だった。皆、私と交流できたことに喜び、興奮しているようだった。私には理解できた。外国人にとって私の国は訪れることが難しく、そうした中で、私が内側からのリアルな視点を彼らに提供できたからだろう。ソマリアについて読んだり、あるいは他の外国人から聞いたりしたのでは得られない話だからだ。疑いの目ではなく、尊敬のまなざしが向けられた。私の声は意義あるものとして受け止められた。

ソマリアの首都モガディシオの広場で行われた、アダン・シーク・アブディ死刑囚の銃殺刑執行(2013年8月17日撮影)。(c)AFP/Mohamed Abdiwahab

 フランス滞在中に最も楽しかったことは、写真に情熱を注ぐ多くの同業の仲間と出会えたことだ。ソマリアには重要な仕事をしているジャーナリストが少なく、支援や理解もあまり得られない。今回のフェスティバル、「ビザ・プール・リマージュ(Visa pour l’Image)」のように、私たちの仕事が称賛されることなどなおさらない。

 こうした大きな祭典で、さまざまな国から来た他の写真家たちの作品を見たり、話を聞いたりしたことは素晴らしかった。刺激になるし、こうした環境に身を置くと、自分にとって重要なこと、自分が命をかけていることについて振り返り、学び、討論する機会になる。できることなら毎年参加できたらと思う。あの場に1週間いれば、毎日新しいアイデアやインスピレーションに触れ、1年分の知識を得ることに匹敵する。写真を撮ることの栄養になるだろう。

自動車爆弾が爆発したソマリアの首都モガディシオのワーディングレー地区を歩く親子(2015年2月27日撮影)。(c)AFP/Mohamed Abdiwahab

■ソマリアの未来に向かって

 ソマリアの未来がどうなるかは分からないが、日に日に良い方向に進んでいるように感じる。異なる部族間の紛争は続いているが、普通のソマリア人たちはもう疲れ、平和を求めている。多くの不幸を経験しすぎ、もうたくさんなのだ。皆、普通の生活を築こうとしている。移住していた人たちが帰国し、商売を始めた者もいる。

 ソマリアに幸せな瞬間はあるのか? この仕事を始めてから、一瞬たりともあったとはいえない。だが時々、幸せを感じる穏やかな瞬間に出会う。ビーチでくつろいだり、サッカーで遊んだりする人々を撮影できるときは、真に喜びの瞬間だ。

ソマリアのハルゲイサでサッカーをする少年たち(2015年5月15日撮影)。(c)AFP/Mohamed Abdiwahab

 それでも、翌日あるいはその日の午後には、暴力とカオスが戻ってくることを知っている。だから100%の幸せを感じることは決してない。

 私がフランスに着いて以来、モガディシオにいる家族は私にプレッシャーをかけてくる。ペルピニャンにいた間、父は電話で「これから、どうするつもりだ?」と聞いてきた。9月半ばにはモガディシオに帰る予定だと答えると「おまえは狂ってる!」と言われた。「おまえは今、安全な国にいるんだぞ。帰ってくるんじゃない。そこで勉強して、レストランで仕事を見つけて、人生を変えるんだ!」

 父の言うことは分かる。私たちの周りで多くの人々が、死んでいるのだから。そして大勢の隣人が、地中海を越えようとして亡くなったのだから。

ソマリア軍によって破壊された首都モガディシオの仮設避難所から、所有物を持ち出す国内避難民(2015年3月4日撮影)。(c)AFP/Mohamed Abdiwahab

 私はソマリアに帰る。家族には、欧州での生活の方が楽かもしれないが、皆に起きるすべての苦を共にしたいと伝えた。モガディシオで写真家として働くことは、とても危険だ。だが、私はこの仕事が好きだ。愛する人たちと一緒にいながら、ソマリアで起きていることを世界に知らせることができる仕事は価値がある。事実、私は写真を撮ることを、仕事ではなく義務だと感じている。

 そして、いつの日か、スポーツ大会でも経済イベントでもいいから、悲劇ではないものを写真に撮りたい。私のキャリアはカオスの中で始まった。私たちソマリア人にも、世界の他の人々と同じように平和に生きる権利がある。その日を、私はこの目で見てみたい。(c)AFP/Mohamed ABDIWAHAB

この記事は、パリに滞在したフリーランス・カメラマンのモハマド・アブディワハブが、AFPパリ本社のローラン・ドクールソンおよびAFPケニア・ナイロビ支局のカール・ジ・ソウザと共同執筆し、AFPパリ本社のクレア・ローゼンバーグが編集し、9月11日に英語で配信されたコラムを、日本語へ翻訳したものです。

カメラマンのモハマド・アブディワハブ。ソマリアの首都モガディシオで。(c)AFP