■民衆蜂起から内戦、大量脱出へ

 数か月前にパリ(Paris)に異動するまで、私は3年間、シリアを取材していた。2011年以来、殺りくをやめろという必死の訴えが無数にあった。だが空爆や戦闘、処刑は日々やむことなく、1日に少なくとも100人、日によってはもっと多くの命が奪われてきた。

 シリアの首都ダマスカス(Damascus)と隣国レバノンの首都ベイルート(Beirut)にあるAFP支局には、共感性に富み、情熱をもって仕事に取り組む記者たちが集まっている。私たちは、シリア全土で変革を求めた穏健なデモの参加者たちが、政府軍に殺害される様子を目撃してきた。また民衆蜂起が武装化し、内戦に陥っていく様を取材した。反体制派のイスラム化と断片化、そしてシリアという国の事実上の分裂も伝えた。私たちは夜遅くまで働きながら、虐殺に続く虐殺を報じ、この21世紀にあのような残虐な暴力が起こり得ることに衝撃を受けていた。

 2013年8月21日、ダマスカス郊外の反体制派の拠点に対し化学兵器攻撃が実施された後には、虐殺を生き延びた人たちの証言をまとめた。イスラム過激派組織「イスラム国(Islamic StateIS)」の台頭と、その暴虐についても書いた。アサド政権に恣意的に拘留された何千もの人々が、刑務所で組織的な拷問を受けていることを調査し、一方、反体制派は政府軍の制圧地域で、民間人の居住区を爆撃していることを報じた。

 わずか4年ほどで、シリアの大部分は崩壊した。それでもまだ殺りくは続いている。

 8月16日、私はコスにいた。ダマスカスの東の街ドゥマ(Douma)を2年以上にわたって包囲していた政府軍がついに空爆を行い、民間人が大半の100人以上が殺害されたというニュースが入ってきた。ドゥマを支配していたのは反体制派の部族長たちだったが、批判者を拉致したり、包囲網をどうにかくぐってもたらされるわずかな食糧や医薬品を独占し嫌悪されていた。

 ドゥマ空爆のニュースが入ってきたとき、コスでは海岸沿いに多数のテントが並んでいた。そこではギリシャ当局による登録の開始を、シリア人たちが待っていた。若い男性のグループはカードで遊びながら、互いの身の上話をしていた。コンピューター工学の学生で、メディア活動家でもあるサイードさん(22)は、ダマスカス近郊の街で民衆蜂起に加わった。彼はソーシャルメディア上で共有された、ドゥマの野戦病院の床に積み上げられた死体の写真を見つめ「僕たちはここから逃げてきたんだ」といった。

 携帯電話で撮影されたその写真と、コスの平和な雰囲気の対比は奇異だった。海は太陽の光で輝き、観光客は明るい黄色やピンク色のビキニや海水パンツ姿でビーチを闊歩していた。中には水や野菜、パンをくれる心優しい人たちもいる。