【8月10日 AFP】元零戦のパイロットとして第2次世界大戦を戦った原田要(Kaname Harada、はらだかなめ)さんが、このたびAFPの取材に応じ、当時の貴重な戦場体験について語った。99歳と高齢ながら、原田さんは戦場で自身が体験したことを積極的に語り継ぐ活動をしている。それは、豊かで安全な国に育った今の日本人が、つらく、希望のない戦争について忘れかけているのではとの懸念からだという。(インタビュアー:長谷川恭子)

■戦争中の苦しい思い出、つらかった思い出

「戦って自分で一番苦しかったことはですね、私は零戦という世界で一番性能のいいといわれた戦闘機のパイロットになりましたので、私の乗っている飛行機を相手が見ると、たいていの各国の戦闘機は一撃は有利な態勢から私を攻撃しますけれども、その有利な態勢から、必ず、高速を利用して逃げていくんです。それを私は追いかけてって、結局最後は、その逃げていく相手のパイロットをしとめるというか、まず、落とす」

「結局最後は、私は、逃げる、やめてくれえ、助けてくれえ、というばかりの表情をする人の命をどのくらいあやめたか、今記憶もありませんけれども、そうした自分の行いが、こんどは、反対に、夢になると、逆になって、わたしが一回も、相手から追われたことがないのに、今度は、相手に追われる立場に、自分の気持ちがなって、苦しくて逃げても逃げても相手が追いかけてくる。そして、要するに、夢でうなされる。そういう(ことが)毎晩続きました。家内が一緒に寝ててくれますから、うなされて、ううう、とやると、どうしたの、と起こしてくれますから、あ、夢でよかった、と。そういう期間が長く続きました」

■若い頃の軍国教育

「私が海軍に入ろうと思ったのが昭和4年(1929年)です。その頃私の年齢は今の高校の2年生と同じで、(旧制)中学の2年生ですから、17歳だったんです。ところが日本の軍隊が世界のおおきな(大国である)ロシアと戦って、日本が戦勝国になったと、しかも、その戦勝国の維持(を)するためには、軍隊を強くしなければいけないというので、軍国主義に当時日本はなっておりました」「そして私は、...同級の友達と一緒に将来競争するだけの...学力がとうていないという自分の限界を知りましたので、この際思いきって、自分の一生を軍隊に預けてそして、軍隊の命令どおりになんでも国のために奉公して、できれば一生、自分の日本人として、与えられた全てをお国にささげてしまいたい、と。純真といえば純真だし、まあ、先が見えないといえば見えないというふうに、…(中略)…(表現)できるかもしれませんが、…(中略)…私は自分ながら、私が一番の、純情な、しかも、忠節な日本人である、その誇りと自信を持ってお勤めをしておりました」