【6月23日 AFP】沖縄戦から70年、島袋淑子さん(87)は今も悪夢にうなされる。米軍の爆撃を逃れて壕(ごう)の中に隠れている友人や日本兵が死んでいく夢を見るのだという。

 島袋さんは1945年3月、大日本帝国軍の看護要員として戦場に動員された女子学生「ひめゆり学徒隊」222人のうちの1人だ。沖縄の南端で陸軍病院として使われていた、あの地獄の壕の中で友人が命を落としていった中、自分が生き残ったことに今も深い罪悪感を抱いている。

 現在は「ひめゆり平和祈念資料館」(沖縄県糸満市)の館長を務める島袋さん。23日の「戦後70年沖縄全戦没者追悼式」を前に、AFPの取材に応じた。島袋さんが語ったところによれば、彼女たちは包帯を巻くなどの基本的なことしか教わっていなかったにもかかわらず、運ばれてくる兵士たちは重傷で、とても助けられるような状態ではなかったという。

「両足切断くらいではない、腸も飛び出してどうにもならない、顔がほとんどない、そういったのがどんどん運ばれてくると、一体何なの、どうしたらよいの、そういう気持ちだった」

 島袋さんは当時17歳で、みんな1週間後には学校に戻れると思っていたという。

 ひめゆり学徒隊のうち、82日間の沖縄戦を生き延びることができたのは半数にも満たなかった。沖縄の住民の4人に1人が犠牲になった激戦だった。多くは敵が近づく中、日本兵に壕から出るよう命じられ、砲弾の雨の中に出て行って死んだ。崖から海に飛び込んだ人、投降するより手りゅう弾で自爆を選んだ人たちもいる。

 島袋さんたちは壕に残ってみな一緒に死ぬことを望んだが、日本兵に外に出されてしまった。すぐに殺されたり重傷を負ったりした人たちもいたが、島袋さんたちは負傷者を一緒に連れて行くことはできず、置き去りにせざるを得なかったという。

 島袋さんは今も死んだ友人の夢を見て、叫びながら目を覚ます。「残してきた友だち、今でもいつ死んだかどこで死んだかわからない友だち、生きてしまったという苦しみ」で、長いこと心を痛めているのだ。