【4月22日 AFP】第1次世界大戦中のアルメニア人虐殺開始から、24日で100年が経過する。アルメニア政府や世界に住むアルメニア人の間では、この節目を前に国際社会、とりわけオスマン帝国の後継国家であるトルコに対し、祖先の虐殺を「ジェノサイド(集団虐殺)」として認めさせようとする動きが活発化している。しかし、このアルメニア人虐殺について「ジェノサイド」という言葉を用いるかどうかをめぐっては、いまだ国際世論は大きく割れている。

 アルメニア人にとって「ジェノサイド」とは、1915年にオスマン帝国の手によって祖先が受けたすさまじい恐怖の決定的証拠を示す言葉だ。一方、トルコ側は、暴力を行使したのは当時関与していたすべての勢力だと主張し、「ジェノサイド」という表現は越えてはならない一線を越えていると主張している。

 米シンクタンク、カーネギー国際平和財団(Carnegie Endowment for International Peace)のトマス・デ・ワール(Thomas De Waal)氏は、アルメニア人にとってはジェノサイドという言葉を使うことで「過去の経験を、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)と同列に位置付けることになる」と説明する。また「トルコ側も、自分たちの祖先の行為がナチスと同様に扱われるというまさに同じ理由で、この言葉を否定してきた」という。そこにはさらにトルコに対する法的要求につながることへの懸念もあるという。

 アルメニアは、オスマン帝国が崩壊に向かっていた1915~17年に、最大150万人のアルメニア人がオスマン帝国によって組織的に殺害されたと主張している。一方、トルコ側は、侵略してきたロシア軍の側についたアルメニア人による帝国への反乱で、アルメニア人とトルコ人双方に30万~50万人の死者が出たとしている。

 アルメニア人虐殺から30年ほどは、呼び方をめぐる議論はなかった。ジェノサイドという言葉は、1944年にユダヤ系ポーランド人法律家のラファエル・レムキン(Raphael Lemkin)が考案し、1948年に国連で制定されたジェノサイド条約(Genocide Convention)で法律として成文化された。「国民的、民族的、人種的、または宗教的な集団の全体または一部を破壊する意図をもって行われた行為」として定義されている。

 事件をジェノサイドとして位置付けようとする試みは、50年の節目を迎えた1965年に始まった。運動は80年代に米国のアルメニア系移民が中心となって国際的に活発化し、急進的な勢力がトルコ政府高官らを殺害する事件まで起きた。

 アルメニア政府によると、巨大なアルメニア人社会があるフランスをはじめ22か国が、1915年の虐殺をジェノサイドだと認めている。今月12日には、ローマ・カトリック教会のフランシスコ(Francis)法王がこの虐殺を「ジェノサイド」と表現し、トルコを激怒させた。

 米国の歴代大統領も、この問題に頭を悩ませている。1980年代初頭、当時のロナルド・レーガン(Ronald Reagan)大統領が「ジェノサイド」という言葉を使ったのを最後に、この言葉の使用は避けられている。バラク・オバマ(Barack Obama)現大統領は、大統領選で勝利するまではジェノサイドとして認める意向を示していたが、就任後にはアルメニア語で「大惨事」を意味する「Medz Yeghern」を使うことで問題を回避している。(c)AFP/Mariam HARUTYUNYAN