【1月16日 AFP】1996年秋のある朝、ジャーナリスト志望だった私は、パリ南部プラス・ディタリー(Place d’Italie)駅近くの何の変哲もない建物の前で、風刺週刊紙シャルリー・エブド(Charlie Hebdo)編集部の扉を開けてもらうための暗証番号を打ち込んだ。

 彼らは全員、その場にいた。大きなテーブルを囲むように座り、チョコレートバーと、フランス語で「小さな男子生徒」を意味する「プチ・エコリエ」という名の定番ビスケットをかじりながら、いたずら書きをしていた。

 そこにいた「彼ら」とは、シャルリー・エブドのジャーナリストであり漫画家たちだ。すでに当時、彼らの仕事を憎悪表現だとみなしていた人々から浴びていた怒声に比べてずいぶん、おとなしい人たちだと思った。

 私は20歳の学生インターンだった。1週間の予定だったはずが、最終的には3か月となったその期間は、私にとって、この冗談好きの達人集団に自分の価値を認めてもらおうと必死になった闘いだった。彼らはそれぞれペンネームを持った風刺画家たちで、テーブルの片隅ですらすらと新聞用の漫画を描き出していた。

 実を言えば、あれほど人を温かく迎え、好奇心にあふれ、人の話に耳を傾ける編集部はシャルリー・エブド以外に見たことがない。

 1月7日の襲撃で殺害されたエコノミストで政治学教授だった「ベルナールおじさん」(ベルナール・マリス氏)は、金利とフランス国債の複雑さについて私に教えようと乗り出してきた。

「カビュー(Cabu)」のペンネームで有名だったジャン・カビュ(Jean Cabut)は、出世作となった子供向けテレビ番組について私が尋ねなかったことを喜んでいた。それよりも サンジェルマン大通り (Boulevard Saint-Germain)を歩く女性たちのへそについて、私と一緒に思いを巡らせた。

「シャルブ(Charb)」のペンネームで知られたステファヌ・シャルボニエ(Stephane Charbonnier)は、分厚い眼鏡から大きな目をのぞかせ、見かけはまさに男子生徒のようだった。

 それからジョルジュ・ウォランスキ(Georges Wolinski)は、ある土曜にクスクスを食べた後、私が人生で初めて吸った葉巻をくれたが、煙を吸い込むべきでないことは教えてくれなかった。皆、1月7日に殺された。