■「私たちとは価値観が違う」

 翌85年には、旧ソ連国家保安委員会(KGB)ロンドン支部の局長だったオレグ・ゴルディエフスキー(Oleg Gordievsky)大佐による冷戦時代で最も悪名高いダブル・スパイ事件が発覚したが、サッチャー氏とゴルバチョフ氏の友好関係はこの危機さえをも乗り切った。

 この年、ゴルディエフスキー大佐は英国へ亡命するために、モスクワでKGB職員の尾行を振り切り、列車に乗ってフィンランド国境まで行き、そこから英大使館の車のトランクに隠れてフィンランドへ入国した。このゴルディエフスキー大佐の亡命は、改善しつつあった東西陣営の関係に大きな影を投げかけた。

 機密が解除されたファイルには、「ヘトマン(HETMAN)」(コサックの司令官を意味する称号)というコードネームで、ゴルディエフスキー大佐に関する記述が数多く登場する。1985年9月6日、英国への大佐の亡命を知らせるために、サッチャー首相からレーガン大統領へ送られた書簡もその一つだ。

 英国側は、ゴルディエフスキー大佐の妻と娘2人も合流させようと、ソ連側に要求した。英秘密情報部(MI6)は、ソ連側がもしも応じなければ、ロンドンで活動するKGB職員を大量に国外追放すると圧力をかけた。しかし、ソ連政府は微動だにしなかった。

 9月7日、両国間での応酬が続く最中、サッチャー首相はゴルディエフスキー大佐に対し、大佐の家族を再会させるためにソ連側に圧力をかけられないことを伝えた。「私たちは、取引をしようとしている相手がどんな種類の人間なのか、現実を直視しないといけない。彼ら(ソ連側)の価値観は、私たちの価値観とはまったく違う──だからといって、人生に意味はないなどと言わないでほしい。常に希望はあるのだから。わが国はこの困難な日々を克服できるよう、貴殿に対するあらゆる助力を惜しまない」

 ゴルディエフスキー大佐と家族は91年になってようやく再会を果たしたが、離散の影響が大きく、その後に離婚している。

 一方、次に記録が残っているサッチャー首相とゴルバチョフ書記長とのやりとりは、ゴルディエフスキー大佐の亡命後の10月12日、その翌日に誕生日を迎えるサッチャー首相へ宛てたゴルバチョフ書記長のバースデーメッセージで、両者の協力は今後も続くべきだと述べている。(c)AFP/Katherine HADDON