【11月8日 AFP】1989年のドイツ。何十年にもわたって地区を分断してきた壁が取り払われ、人々は最愛の家族や恋人と抱擁を交わした。しかしここはベルリン(Berlin)ではない。冷戦時代のドイツ分断の象徴であるベルリンと同様に、東西ドイツの国境が通っていた人口50人ほどの小さな村、メドラロイト(Moedlareuth)も壁崩壊から25年の節目を迎える。

 メドラロイトは当時、ドイツ南部バイエルン(Bayern)州とチューリンゲン(Thuringia)州との境に位置しており、地理的な要因から、19世紀以降、数奇な運命をたどってきた。1つのコミュニティーとして学校や消防署、宿屋を共有し、祝日を共に祝うが、行政上は異なる州に属し、郵便番号や市外局番も異なる。さらに、こんにちはの挨拶の仕方も違って、チューリンゲン側では「グーテン・ターク」、バイエルン側では「グリュース・ゴット」と言う。

 1949年にドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)が建国され、ドイツが分断された。国境が通るメドラロイトでは、村の中央を流れる小川が物理的、政治的な境界線となった。

 分断されてから最初の頃は、メドラロイトの人々はそれぞれの地区を行き来することを許されていた。だが、1952年に、東ドイツ当局によって板塀が設置され、66年にはベルリンの壁と似た高さ3メートルのコンクリートの壁が建設された。壁付近には監視塔が置かれ、昼夜を問わず監視の目が光っていた。これが当時、「リトル・ベルリン」と呼ばれたゆえんだ。

 村の西側で農業を営んでいたカリン・マーグナー(Karin Mergner)さんは「最初は、壁の向こう側に呼び掛けてみたけれど、反応がなかった。後になってから、あちらでは手を振り返すことさえ許されないと知った」と当時を振り返る。

 村の西側の人々は厳しい制約がありながらも、東側を訪れることを許可されていた。マーグナーさんによれば、わずか数ブロック先の東側地区へ行くのに車で2時間もかけて国境を越え、警察当局の数々の検問に耐えなければならなかったという。

 1989年11月9日、ベルリンの壁崩壊の様子をテレビで観たマーグナーさんは、同じことが間もなくこの村でも起こると期待を膨らませたが、それまで数週間は待たなければいけなかった。4週間後、ついにメドラロイトの壁も取り払われた。

 現在60代のマーグナーさんは、「壁がなくなる日をこの目で見られるとは、想像もしなかった」と語った。(c)AFP/Estelle PEARD