【6月11日 AFP】第10回大会となった1974年のサッカーW杯は、イスラエル出身選手が殺された事件が発生したミュンヘン五輪から2年後に西ドイツで開催された。

 この大会では「トータルフットボール」の起源を目にすることになった。

 ヨハン・クライフ(Johan Cruyff)にけん引されたオランダ代表は、決勝まで勝ち残った。そしてフランツ・ベッケンバウアー(Franz Beckenbauer)を擁する西ドイツは、ディフェンダーが攻撃に参加するために自由にポジションを変えるという、当時としては画期的な戦術の主唱者となった。

 東ドイツが1-0で西ドイツに勝利した波乱は、1次リーグにおけるハイライトになったが、結果的に西ドイツは2次リーグでオランダ、ブラジルと対戦することを避けることができた。

 オランダは難なく2次リーグ突破した。東ドイツ、アルゼンチン、ブラジルを相手に全勝したオランダは、決勝に駒を進めた。

 もう1つのグループで快進撃をみせていたポーランドを退けた西ドイツと決勝で対戦したオランダは、試合開始直後にクライフが獲得したPKをヨハン・ニースケンス(Johan Neeskens)が決めて先制点を挙げた。

 オランダはしばらく西ドイツを翻弄したが、突然勢いを失った。前半25分に西ドイツはパウル・ブライトナー(Paul Breitner)のゴールで同点に追いつくと、前半終了間際にゲルト・ミュラー(Gerd Mueller)が決勝点を挙げた。(c)AFP