■スターに駆け上がったニルヴァーナ

 コバーンは1987年にベーシストのクリス・ノヴォゼリック(Krist Novoselic)とニルヴァーナを結成。その後複数のドラマーが入れ替わり、デイブ・グロール(Dave Grohl)が加入した。サブポップ(Sub Pop)レーベルと1988年に契約したが、同年4月10日にシアトルで行われたお披露目コンサートは及第点とは言い難いものとなった。

「あまり印象が良いとは言えなかった。ショーは最高のものではなかったし、彼の楽曲もそこまで良くはなかった」と、サブポップの共同創設者のブルース・パビット(Bruce Pavitt)氏はAFPの取材に語った。「だがカート・コバーンは驚くべき声を持っていた。だからカートの驚異的な声に賭けることにした」

 ニルヴァーナは1989年にサブポップからデビューアルバムの「ブリーチ(Bleach)」をリリースし、そして1991年にゲフィンレコード(Geffen Records)からリリースした「ネバーマインド(Nevermind)」でスターの座を射止めた。1993年の3枚目のアルバム「インユーテロ(In Utero)」もヒット作となった。

 ニルヴァーナの成功だけでなく、コバーンはプライベートでも喜びの中にいた。1992年に歌手のコートニー・ラブ(Courtney Love)と結婚し、同年8月には娘のフランシスが生まれた。

 しかし喜びはそう長く続かなかった。スターの重圧に耐えきれなくなり、コバーンはうつ病に苦しむようになった。コートニー・ラブは、1994年3月のローマ(Rome)での薬物過剰摂取が、最初の自殺未遂だったと語っている。

■「シアトル」とコバーン

 コバーンの死が発表されると、シアトル中に衝撃が走り、それは音楽界に広がった。「市全体が喪に服した」とパビット氏は当時を振り返る。ただ「彼は1か月前にローマで自殺未遂をしていたので、そこまで唐突なことではなかった」と付け加えてた。

 ファンはコバーンが最後に暮らした家の隣にあるビレッタパーク(Viretta Park)に集まった。彼らは今年の5日も再びこの公園に集まり、すでに落書きまみれになったベンチにさらにグラフィティを追加するだろう。

 だが奇妙なことに、コバーンの記念碑と言えるものは、シアトルにはこのベンチしかない。

「シアトルのメディアや音楽業界は誇りに思っているようだが、(市当局は)ためらいがあるように感じる」と、シアトルのジャーナリスト、ジリアン・ガー(Gillian Gaar)氏は語る。

 一方アバディーンの市長はシアトルの対応に批判的だ。アバディーンには町の博物館にコバーンの像があり、コバーンが作曲をしたとされる橋のそばにはコバーンをテーマにした公園がある。

「コバーンはシアトル出身じゃない。彼がアバディーン出身であることは素晴らしいことだ。彼は有名になってからシアトルに認められた」とシンプソン市長は語る。「そして彼は自殺した…薬物や銃、その他全部に殺された。そして突然シアトルはこう言う。『彼はアバディーンの人間ですよ』と」

 シンプソン市長はコバーン暗殺説の信奉者の一人だ。「誰かが彼を殺したと思う。本当にそう思う」とシンプソン市長は語り、ライフルで自分の頭を撃つことの難しさを指摘した。

 一方、シアトルのガー氏は、コバーンの家の前にあるベンチに座り、「自殺だったことに疑問を持ったことは一度もない」と述べて暗殺説を一蹴した。(c)AFP/Michael THURSTON