■全盛期で迎えた1994年の米国大会

 それでもバッジョは1990年の失意から立ち直り、W杯直前に当時史上最高額の150億リラで移籍していたユベントス(Juventus)で、自身の評価をさらに輝かしいものにした。

 1994年のW杯米国大会までの間に、バッジョはユベントスでセリエAとイタリア杯(Italian Cup)、UEFAカップ(UEFA Cup)のタイトルを獲得し、1993年には世界と欧州で最優秀選手に選出されるなど、クラブで最高の時期を過ごした。

 そして迎えた米国大会で、バッジョは最高のプレーを見せた。

 1982年大会と同様、イタリアは大会序盤から調子が上がらず、グループリーグは3位の成績上位チームとしてかろうじて突破するような状態だった。

 そこからイタリアは、バッジョの活躍で決勝までたどり着くことになる。バッジョは、決勝トーナメント1回戦のナイジェリア戦で2得点を決めてチームを劇的な勝利に導き、続く準々決勝のスペイン戦でも決勝点を挙げると、さらに準決勝のブルガリア戦でも2得点を記録した。

 しかし、ブラジルとの決勝戦で太ももをテーピングで固めたバッジョは、それまでの好調を再現することができなかった。

 そして、この大会のバッジョを象徴する瞬間がPK戦で訪れる。バッジョがキックをゴールのはるか上に打ち上げてしまい、優勝がブラジルの手に渡ると、イタリアの英雄は悲しみに暮れた。

 米国大会後、バッジョはイタリア代表では出番が減り、アリゴ・サッキ(Arrigo Sacchi)監督が率いた1996年の欧州選手権(UEFA Euro)ではメンバー外になったが、皮肉なことに、イタリアはこの大会でグループリーグ敗退という屈辱を味わった。

 1998年のW杯フランス大会(1998 World Cup)では代表入りし、チリ戦ではPKを決めて得点を挙げたバッジョだが、チェザーレ・マルディーニ(Cesare Maldini)監督は、アレッサンドロ・デル・ピエロ(Alessandro Del Piero)の方が好みだと公言していた。

 その言葉の通り、グループリーグでは好プレーをみせていたバッジョも、決勝トーナメントに入ってデル・ピエロが復帰するとベンチ要員に降格し、チームもこの大会で郵送したフランスに敗れて敗退した。

 その後、キャリアの晩年が近づくなかで、バッジョは2000年に弱小クラブのブレシア(Brescia Calcio)に移籍し、そこでイタリア代表復帰を目指した。

 しかし、代表復帰を求める世間の声が高まっていたにもかかわらず、2002年の日韓大会は落選となり、バッジョは2004年に現役を退いた。(c)AFP