【12月6日 AFP】反アパルトヘイト(人種隔離政策)運動による政治犯から南アフリカの大統領になったネルソン・マンデラ(Nelson Mandela)氏が歩んだ長い道のりは、南アフリカを変え、世界に影響を与えた。

 肺の感染症で何か月にもにわたり重篤な状態となっていたマンデラ氏は5日、ヨハネスブルク(Johannesburg)の自宅で家族に見守られながら安らかに息を引き取った。95歳だった。

 今から13年前の1990年2月11日、少数派の白人によるアパルトヘイト体制に反対して投獄されていたマンデラ氏は、27年間の獄中生活を終えて出所した。その体は年老いたものの、不屈の精神を保っていた。

 それは、20世紀の決定的な瞬間だった。世界で最も名の知られた政治犯を釈放することにより、フレデリク・デクラーク(Frederik de Klerk)大統領は、ある明確なメッセージを発信した。数百年にわたって従属させられてきた南アフリカの数百万人の黒人も、もうすぐ自由になる──アパルトヘイトは終わったのだ。

 当時71歳のマンデラ氏は、27年ぶりの演説で「私は皆さんに、全ての人々のための平和と民主主義、自由という名のもとに、お話をします。預言者としてではなく、皆さん、人民に奉仕する謙虚な従者として、ここ皆さんの前に立っています」と語った。

 自己憐憫(れんびん)の念を持たないマンデラ氏は、自らを投獄し他の黒人たちに残忍な仕打ちをした人々に歩み寄り、当時(そして現在も)恐怖にとらわれた同国での「真の和解」を説いた。

 釈放から4年後、そしてノーベル平和賞の受賞から1年後、マンデラ氏は国民の圧倒的支持を受け、同国初の黒人大統領に選出された。

 マンデラ氏は大統領就任演説で、「私たちは1つの契約を結んだ。黒人も白人も、全ての南アフリカ人が胸を張って歩くことができ、何も恐れることなく、人間としての尊厳についての不可侵の権利が保障される国──国内でも外国とも平和な『虹の国』を築こうという契約を」と宣言した。

 大統領となったマンデラ氏は、その穏やかな物腰と、象徴的な言葉を巧みに操る演説などで、深刻な人種間暴力を防ぐことに成功した。

■獄中から大統領に

 マンデラ氏は1918年7月18日、南アフリカでも最貧地区の1つ、トランスカイ(Transkei)にあるムベゾ(Mvezo)村で、テンブ人の首長の家庭にホリシャシャ・マンデラ(Rolihlahla Dalibhunga Mandela)として生まれた。「ネルソン」は学校の教師につけてもらった英語名だ。

 学生時代に活動家となり、52年にヨハネスブルクに黒人として初めて法律事務所を開設した。

 61年にアフリカ民族会議(African National CongressANC)の地下武装組織「ウムコント・ウェ・シズウェ(Umkhonto we Sizwe、民族の槍)」の最高司令官となり、翌62年にはアルジェリアとエチオピアで軍事訓練を受けた。だが後に逮捕・起訴され、64年に終身刑を言い渡された。このとき裁判でマンデラ氏が行った演説は、反アパルトヘイト運動のマニフェスト(宣言)となった。

「私は白人による支配に対して戦ってきた。黒人による支配に対しても戦ってきた。全ての人が平等な機会の下で暮らす民主的で自由な社会という理想を私は抱いてきた。(中略)この理想のために、死ぬ覚悟もできている」

 マンデラ氏はロベン島(Robben Island)に18年間収容された後、82年にケープタウン(Cape Town)のポールスモア(Pollsmoor)刑務所に移送された。その後、郊外パール(Paarl)のビクター・フェルスター(Victor Verster)刑務所に再移送された。

 マンデラ氏の収監中、南アフリカには国際社会からの圧力が強まり続けていた。

 1989年になると、強硬派のP・W・ボタ(P.W. Botha)大統領が辞任し、融和的なフレデリク・デクラーク大統領が就任。デクラーク氏はその1年後、マンデラ氏の釈放を命じた。(c)AFP/Andrew BEATTY