【11月28日 AFP】10代の若者の声が、まどろむ白髪の人たちとその場を包み込んでいた深い静寂を破る──「もしも周囲の全ての人が我を失い、お前を非難してきても、それでもお前が自分を失わずにいられるなら」──。すると、「それでこそお前は、一人前の人間だ、息子よ」と、詩の朗読を聞いていた1人の女性が突然、明瞭な意識を取り戻したかのように最後の一節を朗読した。

 アルツハイマー病は、この女性の記憶の大半を盗み取った。しかしそれでもまだ、彼女は何年も前に覚えたラドヤード・キプリング(Rudyard Kipling)の有名なこの詩の一節を思い出すことができる。残酷なこの疾患がもたらす深い霧の中で、明確な意識が取り戻されたまれな瞬間だった。

 英国中部、ウィリアム・シェークスピア(William Shakespeare)の故郷であるストラトフォード・アポン・エイボン(Stratford-upon-Avon)にある老人ホーム「ハイランズ・ハウス(Hylands House)」は、入所者向けに詩の朗読を行っている数多くの施設・病院の1つ。詩を聞くことには、記憶やコミュニケーション能力、基礎的技能の喪失などの認知症の症状を一時的に改善させる効果があるとされている。

 高齢者の支援活動を行う団体、「キッシング・イット・ベター(Kissing it Better)」の共同創設者、ジル・フレイザー(Jill Fraser)さんは、詩を読んで聞かせることがアルツハイマー病の治癒につながるわけではないが、よく知られている詩の一節のリズムやペースは、記憶や語感を呼び起こす引き金になることがあると説明する。

■「詩がダムを決壊させた」

 アルツハイマー病の入居者たちがいる介護施設は、静かで重苦しい場所になりがちだ。「長いお別れ」とも呼ばれるこの疾患は、人をその人たらしめる全てものを少しずつ奪い取っていく。

 しかし、朗読に来ている15歳のボランティアの少女は、この施設で過ごす時間に「ワクワクする」と話す。少女は、「ここに来ると、初めは皆別々に座っている」けど、誰かが大きな声で詩を読み始めると「すぐにみんなが生き生きとした顔になって、笑顔になるのが分かる」とコメントした。

 さらに、同じくこのホームで朗読をしているかつてロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(Royal Shakespeare CompanyRSC)に在籍した元女優、アニタ・ライト(Anita Wright)さん(81)は「突然、彼らが一緒に一節を朗読するときが素晴らしい」と述べた。

 ライトさんによると、男性が恋人に別れを告げる詩を朗読した際、重度の認知症の女性患者が泣き出し、自分の婚約者の死について話し始めたことがあったという。「その人は入所して以来、一言も話したことがなかった。詩がダムを決壊させたのでしょう」

 RSCの発声部門主任、リン・ダーンリー(Lyn Darnley)さんはAFPの取材に対し、「詩のリズムは私たちの心の奥深くに刻まれる。感情の記憶だけでなく、言語の持つ深い知覚の記憶にも触れ、それを呼び覚ますことができる」と述べ、詩が非常に強い力を持ち得ることを説明した。

 専門家らは、詩の朗読によって認知症の進行が止まることはないと忠告する。だが、患者の生活の質の向上を支援する慈善団体「ディメンシアUK(Dementia UK)」の看護師、デイブ・ベル(Dave Bell)さんは、「患者たちは、何かを思い出せたということで達成感を得たり、自尊心を感じたりすることができる。それが、他者とのつながりを保つことにもつながる」と語った。

 英国内における認知症の患者数は約80万人に上るとされている。(c)AFP/Beatrice DEBUT