【7月10日 AFP】ノルウェーの北極圏、その過酷な環境から「地獄の門」と呼ばれた地で17世紀、多くの女性たちが魔女狩りの犠牲となり処刑された。

 それから400年を経て、ノルウェー・バランゲル(Varanger)半島先端に位置する北極圏の小さな町バルデ(Vardoe)に2011年に設立された全長125メートルのモニュメントは、集団が犯した罪の記憶をとどめるとともに、ありもしない罪を着せられ処刑されていった女性たちを慰霊するものだ。

 ある女性は子ども1人とヤギ2匹を呪い殺したとして火あぶりにされた。別の女性は、船10隻が沈没し船乗り40人が溺死した嵐を呼び起こしたとして処刑された。

 バレンツ海(Barents Sea)を臨む浜辺にひっそりと建てられたモニュメントは、処刑されていった女性たちの死の無意味さを象徴するかのように、どこにもたどりつけない木の橋のようだ。

 このモニュメントはフランス系米国人アーティスト、故ルイーズ・ブルジョワ(Louise Bourgeois)氏の最後の作品の1つ。簡素なホールには、悲劇の時代を象徴する4つの火が、絶えることなくともされている。

 17世紀初頭、ノルウェー最北端のフィンマルク(Finnmark)県の人口は3000人ほどだった。だが、数十年の間に、そのうちの135人もが魔術を用いたとして裁判にかけられ、このうち91人が過酷な拷問にかけられ、それでも生きていれば、火あぶりの刑に処せられた。そのほとんどは女性だった。

 ノルウェー北部トロムソ大学(University of Tromsoe)のリーブ・ヘレネ・ウィルムセン(Liv Helene Willumsen)教授によれば、魔女狩りの嵐が吹き荒れた欧州の中でもフィンマルクは最悪だったという。「犠牲者の比率で言えば、ドイツやスコットランドの一地方よりも悪い」

 だが、なぜノルウェー最果ての地で、これほどまでに魔女狩りが過熱したのだろうか。

 当時デンマークと連合を結成していたノルウェーの政治中心地であるコペンハーゲン(Copenhagen)から数週間もかかるという、地理的に孤立した最果ての地という位置こそが、迷信的な考えを生む土壌となったのかもしれない。

■「魔女狩りの歴史、まだ終わっていない」

 フィンマルクでは、悪魔学の教義にどっぷり浸った聖職者や町の有力者たちによって、女性には悪魔と契約を交わす能力があるとの信念が広められた。さらに、北極圏は地獄の「控えの間」の地であるとの考え方が魔女狩りに輪をかけた。

   「当時の人たちは、悪魔と手を組んだ軍が周囲に潜んでいると本気で信じていたのです」と、ウィルムセン教授はいう。裁判所も魔女狩りを鎮めることはできなかった。法廷では強制的に自白させられ、その日のうちに有罪判決が下ったという。

 拷問によっても自白を引き出せない場合、裁判所は魔女だと告発された女性に対し「水の試練」を命じることもできた。「水の試練」とは、女性の手足を縛ったうえで海に投げ込み、女性が海に沈めば魔女ではなく、浮いた場合は魔女だと判断するものだ。

 ウィルムセン教授によれば、水は純粋な要素であるから不純なものをはじくと考えられていたために、こうした方法がとられたという。  フィンマルクの場合、「水の試練」を与えられた被告は全員が浮いた。

 インゲボルグ・クローグという女性は、1663年に魔女の疑いをかけられたが、自ら「水の試練」を受けることを願い出た。「水の試練」によって疑いがはれると信じていたからだ。だが慰霊碑の説明によれば、彼女は「コルクのように浮いた」という。

 その後、インゲボルグは拷問にかけられたが、彼女から引き出せた自白は、告発者の1人である親戚から与えられた魚を食べたあと体調を崩したというものだけだった。インゲボルグは拷問の最中に命を落とした。

 それから400年後、魔女狩りの恐怖は、すでに欧州では終息したが、世界のあちこちで現在も残っていると歴史学者らは警告する。

   「魔女狩りの歴史は、まだ幕を閉じていない」と、トロムソ大学の歴史学者、ルネ・ブリックス・ハーゲン(Rune Blix Hagen)氏は言う。「西洋では見られないが、アフリカやアジア、南米などでは依然として盛んに行われている」

 そうした地域では今日でも数百年前と同様、病気や死、船の遭難、飢饉(ききん)などの不幸や災害の原因を「魔女」に転嫁する構図がみられる。

 中世ヨーロッパの魔女狩りでは、およそ5万人が裁判にかけられ処刑された。だが、公式統計の数字は氷山の一角にすぎないと、ハーゲン氏はみている。「バルデの慰霊モニュメントは、私たちに迫害はまだ終わっていないと思い起こさせる意味もあるのです」

   (c)AFP/Pierre-Henry DESHAYES