【6月21日 AFP】肺の感染症で入院中の南アフリカのネルソン・マンデラ(Nelson Mandela)元大統領(94)と共に反アパルトヘイト(人種隔離)運動を闘い、一緒に終身刑判決を受けた同志が、判決から49年目を迎える12日、AFPとのインタビューで「あの日」を振り返った。

 1964年6月12日、マンデラ氏と共に終身刑の判決を受けたアンドリュー・ムランゲニ(Andrew Mlangeni)氏(87)は「昨日の出来事」のように覚えていると語る。「今でも、はっきりと記憶している。あれは南アフリカの歴史における転換点だった」

 首都プレトリア(Pretoria)の法廷で前日、有罪を言い渡されたマンデラ氏ら8人の被告はこの日、量刑言い渡しのために再び被告席に着いた。闘争の指導者だったマンデラ氏には死刑判決が言い渡されるとみられていた。

 ムランゲニ氏によれば、マンデラ氏はその日、運命を受け入れ、非白人系南アフリカ人の権利拡大を求める反アパルトヘイト闘争に命を捧げる覚悟でいたという。だがマンデラ氏を含め8人の活動家たちに下された判決は終身刑だった。

 ケープタウン(Cape Town)沖にあるロベン島(Robben Island)の刑務所で自らも26年間服役することになったムランゲニ氏は、「マンデラ氏には第1容疑者として、さらに過酷な判決が下ると思っていた。終身刑判決は驚きだった」と回想する。マンデラ氏は冷静に終身刑を受け入れているようだったという。

 死刑が回避された背景には、人種隔離政策に対する国際社会の多大な圧力があったとムランゲニ氏はみている。「彼ら(白人政府)は屈したのだ。詰まるところ、われわれが黒人闘争の殉教者とみなされることを嫌ったのだ」

■世界を打ち震えさせた被告席からの演説

 ネルソン・マンデラ記念館(Nelson Mandela Centre of Memory)は、この日の裁判を「間違いなく、南アフリカ史における最も重要な政治裁判」だという。

 マンデラ氏は被告人の最終陳述で、求刑に対する意見を述べる代わりに演説を行うことを選んだ。この演説は法廷内にいた人々ばかりか、南アフリカ、そして世界を感動に打ち震えさせた。

 反アパルトヘイト闘争の宣言となった演説はこう締めくくられていた。

「私は白人の支配に対して戦ってきた。黒人の支配に対しても戦ってきた。全ての人が調和し、平等な機会の下で暮らす民主的で自由な社会という理想を私は抱いてきた。この理想のために私は生き、この理想を実現したい。しかし必要とあらば、この理想のために、死ぬ覚悟もできている」

 政治評論家のザミカヤ・マセティ(Zamikhaya Maseti)氏は「被告席からのマンデラ氏の演説は、南アフリカを支配する白人たちに向けられただけではなかった。全世界に向けられたものだった」という。「マンデラ氏は(投獄によって)何十年も姿を消すことになる前に、世界の注目を集めることに成功した」

 その一方で終身刑判決は、マンデラ氏や故ウォルター・シスル(Walter Sisulu)氏、ターボ・ムベキ(Thabo Mbeki)前大統領の父であるゴバン・ムベキ(Govan Mbeki)氏ら指導者の投獄によって、反アパルトヘイト闘争に「壊滅的な打撃」を与えもした。

 マンデラ氏は収監された27年間のうち18年間をロベン島刑務所で過ごした。その後、移送されたケープタウン郊外パール(Paarl)の刑務所から釈放されたのは、1990年2月11日だった。数々の政治交渉を率いた結果、1994年に行われた南ア初の民主的選挙で同国初の黒人大統領に選出されたマンデラ氏は、1期4年のみを務めてその座を退いた。(c)AFP/Sibongile KHUMALO