【インタビュー(前編)】メゾン タクヤ:フランソワ・ルッソ ~アンドレ・プットマン女史やジャック・エリュ氏との出会い、そして別れ~
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【6月5日 MODE PRESS】「一部の妥協も許さない、完璧な革製品」をコンセプトにフランス人デザイナーのフランソワ・ルッソ(Francois Russo)が手がける「メゾン タクヤ(MAISON TAKUYA)」は、アジアとヨーロッパの優れた技術を融合させた屈指の高級皮革製品を展開するブランドだ。厳選された天然素材を用い、手作業で1つ1つ仕上げられたアイテムは、NY・バーグドルフグッドマン(Bergdorf Goodman)やパリ・コレット(colette)、日本では阪急メンズ館や伊勢丹メンズ館でも取り扱われており、今世界的に高い評価を得ている。
■インタビュー:フランソワ・ルッソ
-そもそも広告代理店に在籍してアートディレクターとして仕事をしていたところから、高級メゾンのブティック内装を手がけたり、ハイブランドのコンサルタントとして数々の商品やキャンペーンを仕掛けてきましたが、それらすべてに通じることとは?
F:私にとっては基本的に全てのそういったこれまでの活動は突き詰めれば4つの要素にたどり着くと考えています。一つは素材、2つ目は形、3つ目は光、4つ目は色。写真を撮るにも、ものをつくるにも、ブランドも、アイデンティティを考えるにも、全て何が重要で、何を整理して捉えなければいけないのか、を考える上で、この4つの要素が非常に大事です。
そこを突き詰めた上で、どのように1つにまとめていくかというところでアイデンティティの表現や、ダイレクションに結びついていくものがあるので、私にとって様々な活動をしてきたといわれているんですけど、本質は同様のものであると思っています。
アートディレクションをとって、方向性を決めるお仕事に関わる中で、そういうことだったら、「君のアイディアをお店にしてみたらどうなるか、担当してみてくれないか」と言われ、「そのお店を君だったらどうするか?」と言われ、「この写真をどういう風に撮ったら一番人に伝わるか」と言われ、それに対応してきました。自分からこれにチャレンジしてみたいというよりもむしろ、周りの方から自然発生的にこういう風にしてみたらどうだろうかというお話を頂いて、それに対面していくなかで活動が広まったというのが実際の流れですね。
-転機となったお仕事は?
F:すべての始まりはアンドレ・プットマン(Andree Putman)さんとの出会いですね。僕の人生において大きな影響を及ぼしたと言っていいでしょう。彼女とは年が離れていましたが、20年以上、彼女が亡くなるまで本当に仲のいいお友達であり、仕事のパートナーでした。生前は、毎週日曜日になると、互いのお客様や仕事について、2時間ぐらい電話で話し合っていました。
当時私はまだ小さなイメージエージェンシーを経営していただけで、彼女とは個人的なお付き合いだったのですが、ある日彼女から連絡があって、「私のキャリアでこれまで一度も起こったことがないような出来事が起きたの!ベルナール・アルノー(Bernard Arnault)さんが私のプロジェクトにNGをだしてきたのよ。こんなことありえないわ。ちょっと悪いけれど明日私の事務所に来て、プロジェクトを見てもらえない?」と連絡がありました。
それは、シャンゼリゼ通りにあるゲランのブティックのお仕事でした。翌日、彼女の元へ行きプロジェクトを見ると、洗練されていて、細部に品があり、非常にいい内容でした。しかし、グレーやブラウンを基調とした、それはどうみても“アンドレ・プットマン”そのものでした。女性の美しさや華やかなイメージのゲランとはちょっと違うとも感じました。そういう意味ではアルノーさんの気持ちが分からなくないといった印象でした。
正直にそのまま伝えたところ、その瞬間プットマンさんは、図面を投げてしまい、じゃあ、あなたがやりなさい!というようなことがありました。しかし、アルノーさんは“アンドレ・プットマン”の企画が欲しいわけですから、プットマンさんが冷静になったところで、改めてきちんと僕がお仕事をお手伝いするということで、このプロジェクトはスタートしました。
結果、彼女らしく、そしてなによりもゲランらしいプロジェクトになり、アルノーさんは喜んでくれました。この一件が終わったところで、プットマンさんから今みたいな小さい事務所はどうなのかしらね?一緒にくっつけちゃわない?なんていうことを言われて、お互い一つの成果をシェア出来たということもありお仕事を一緒にさせていただくことになりました。やはりプットマンさんは非常にフランスでは社会的にも名声を得た女性だったので、女性の会社にきちんと参画して、立ち上げたということで名だたるブランドの仕事を沢山手がけることができました。
-シャネルはどういった経緯でどのようなお仕事だったのですか?
F:そういった形でプットマンさんを通じて、他にも様々なブランドとお仕事させていただきました。ただシャネルに関しては、フランスを代表するブランドの一つとしてプットマンとなかなか縁がなかったブランドでした。今はもう亡き、シャネルのアートディレクターをされていたジャック・エリュ(Jacques Helleu)さんと出会ったことで、その後僕はシャネルとお仕事をさせていただきました。
ジャックさんとは色々なところでお会いする機会はあってご挨拶は何回かさせていただいたんですけれども、非常にクールな方でなかなか近づきがたい方でして・・・・ご挨拶しても「ボンジュール」と手は差し伸べられるんですが、お互いの距離が2メートルくらい離れているみたいな、そんな緊張感のある関係でした。
ある日、ジャックさんの奥様と非常に仲良しだった僕の親しい友人が、ジャック夫妻とディナーを共にするから一緒に来ない?と誘ってくれました。お食事そのものは楽しい時間を過ごしたのですが、ジャックさんは、やはり氷のようにクールな存在感で、その横には社交上手で非常に楽しい奥様がいらっしゃって、、、、話が弾むなか、急にジャックさんが「ところでプットマンさんとは具体的にどういうお仕事をしているのかね?」と聞いてきました。
緊張感が走るなか、いろいろなお話をしましたが、その日の食事は期待していた様な、何かが起きることなくお開きになりました。が、その1ヵ月後、食事をオーガナイズしてくれた方から連絡があって、「ジャックさんの奥様が主人が僕の携帯番号を教えて欲しいといっている」と電話がありました。そんな聞くまでもないことなので、すぐに連絡先を先方に伝えて貰うことになりましたが、そこから次のアクションまで、待てど暮らせど一向に連絡がない。待ちくたびれて、諦めようと思ったときに連絡がきて、翌週に食事をしましょうと言われました。そしてお会いしたその場でシャネルのビジネスコンサルタントとして参画してほしいとオファーを受けました。
これまでと違ったのは、今回はプットマンさんとの仕事ではなく、僕個人への仕事のオファーでしたので、快諾することにしました。
-ジャックさんとの思い出で印象的なことは?
F:彼はシャネルのなかで、本当に素晴らしい業績を上げた方でしたが、洋服をデザインしたわけではないので、なかなか多くを語られることがありませんでした。今ではシャネルのなかでも人気の「J12」シリーズをはじめ数々の名品を世に送り出してきたにも関わらず、彼の名前が語られることがない。
今考えるとこれも非常に運命的なものを感じますが、彼が亡くなったときに、イタリア・トリノの高級家具メーカー、Poltrona Frau社から依頼を受け、僕は椅子のデザインをしました。そして、その作品に、彼の名前を付けることができました。奥様や息子さんにも相談したら、非常に喜んでくださったので、彼の功績と名前を後世に残す意味も含めて、私が心をこめた製品に「Hellue Chair」と彼の名前が付されるという小さな奇跡が起こりました。
人生において、本当に驚くようなことが自分の身に実際起こっている瞬間、何が起こっているのかと狼狽えることがあるんだなと、ジャックさんという人物を通してシャネルの仕事をしているときは思っていました。今よりもまだまだ僕も若かったこともあり、彼も寛大に構えてくれていました。彼はこの世界のなかで、こんな風になれたらなという神様のような人だったので、同じ場を共有していてもどうしたらいいかわからなくてどぎまぎしてばかりでした。
そんななかで、自分を表現するだなんておこがましいと思うことさえありましたが、初めてお会いした食事の席で、「これはたまたま食事を君としているのではない。理由があるからしているんだよ」と言われました。そのとき、全身に鳥肌が立ったのを今でも鮮明に覚えています。(後編続く)
■インタビュー(後編):ブランドの立ち上げ、そして“ラグジュアリー”が進む方向
(c)MODE PRESS