【5月28日 AFP】欧州最大の自動車メーカーとなったフォルクスワーゲン(VolkswagenVW)の企業城下町として発展してきたドイツ中北部のウォルフスブルク(Wolfsburg、旧KdF市)は、1938年に「国民車」の生産を目的に計画都市として創設された。そのウォルフスブルクは26日、市創設から75周年を迎えた。だが、VW社側には盛大な祝賀行事を開催する予定はない。ナチス・ドイツ(Nazi)の総統、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)が影を落とし続けているためだ。

「あれは、ナチスのプロパガンダの一環にすぎなかった」――VW広報は、1938年5月26日にVWの伝説的大衆車「ビートル(Beetle)」の原型となった乗用車「KdF(Kraft-durch-Freude、歓喜力行車)」生産工場の礎石がナチス幹部たちの手によってウォルフスブルクに置かれたことについて、こう述べている。

 定礎式ではドイツ軍兵士8万人が整列する前を、ビートルの設計者フェルディナント・ポルシェ(Ferdinand Porsche)はヒトラーと共にオープンカーで通り過ぎた。ウォルフスブルクの工場では主に、「ドイツ国防軍(Wehrmacht)」に供給する車両や軍需品が量産された。その裏で、工場では強制連行された数千人の労働者たちが非人道的な環境で働かされていた。

 第2次世界大戦中には、ポルシェの娘婿のアントン・ピエヒ(Anton Piech)が工場経営を担った。後に当時の強制労働に対するVWの補償問題に取り組むことになるのが、アントンの息子、フェルディナント・ピエヒだった。1990年代にフェルディナントがVW会長に就任すると、VWは独自の補償基金を設立。また、会社が保有するナチスとの関わりの歴史についての資料を研究者に公開した。

■フォルクスワーゲンの街

 一方、VWとは対照的に、ウォルフスブルク市当局は市の創設を祝う理由は十分にあると考えている。ただ、式典が行われるのは7月1日だ。その日こそが、75年前に「KdF車の街」創設の公式文書に署名がされた日だからだ。当時、わずか900人だった街の人口は現在では12万人を超えた。うち5万人以上がVWに勤務している。

 「VW」と「ウォルフスブルク」は同等化しているといっても過言ではない。ウォルフスブルク市民は自分たちの街を、VWの代表車種「ゴルフ(Golf)」をもじって「ゴルフスブルク(Golfsburg)」の愛称で呼ぶ。

 ウォルフスブルクを訪れた人は、欧州最大の自動車工場のプレス機の振動を足元に感じることができるだろう。世界に誇れる博物館や、ドイツ・ブンデスリーガ1部に属するサッカークラブ、VfLボルフスブルク(VfL Wolfsburg)もある。だが、他のドイツの街で見られる古い教会や木骨造りの家々、重厚な石造りの邸宅などは、ウォルフスブルクにはない。この街で75年以上前からあるものは、森だけだ。(c)AFP/Josef Harnischmacher