【3月11日 AFP】福島県福島市の自動車部品工場で働く二瓶幹雄さん(38)の家族は東日本大震災以後、離れ離れに暮らしている。仕事がある二瓶さんは福島の自宅に残ったが、妻の和子さんと3歳と5歳の娘2人は東京電力(TEPCO)福島第1原発の事故による放射能漏れを恐れて東京に避難したからだ。

 2011年3月11日、巨大な津波に襲われた福島第1原発では炉心溶融が発生。原発からは大量の放射性物質が拡散したと多くの人たちが考えた。それから1週間後、二瓶さんは家族を避難させた。

 しかし日本は不況の最中にあり、原発から約60キロの場所にある自動車部品工場を辞めることを二瓶さんは思いとどまった。現在、東京に暮らす家族とは、月に一度しか会うことができない。

 何枚もの娘たちの写真や手紙が飾られた福島の自宅でAFPの取材に応えた二瓶さんは、いつまでこんな状況が続くのか先が見えないと話す。東京までの交通費は高額で、家族に会いに行かれるのは月に一度。このような二重生活を続けていくのは、経済的にも精神的にも厳しいという。

 福島原発の事故では、国内には数世代にわたって空洞化する地域も出てくるだろうと警告する人々もいる。

■目に見えない放射能を恐れて

 ここ数十年で世界最悪の原子力事故となった福島原発の事故だが、公式には1人の犠牲者も出していない。しかし、大きな人的損失は続く。

 立ち入り禁止の「警戒区域」に指定された原発20キロ圏内に自宅があるため避難を余儀なくされた住民は10万人以上。それより広範囲な地域には、二瓶さんのような人たち数万人が、目に見えず臭いもない放射線がもたらす健康被害を恐れながら暮らしている。

 政府お抱えの科学者や国際機関は、福島の住民が浴びる放射線量は人体に害をもたらすほどではないと発表している。だが、その言葉に安堵(あんど)する人など、ほとんどいない。

 二瓶さんの妻、和子さん(36)は、たとえ受ける放射線量が年間100ミリシーベルト以下であっても、放射線リスクのあらゆる可能性は全て回避したいと考えている。

 AFPが福島市にある二瓶さん宅を訪問した日、近所にある中学校前に設置された放射線モニタリングポストは毎時0.1マイクロシーベルトの数値を示していた。この線量が恒常的な数値ならば、年間の被ばく量は1.0ミリシーベルト以下ということになる。

■復興にはほど遠く――

 一方、住民約6000人が避難する飯舘(Iitate)村の菅野典雄(Norio Kanno)村長にとって、村が平常に戻るのは、まだずっと先の話だ。

 避難した当初、菅野村長は2年ほどで村に帰れると思っていた。だが東京で取材に応じた村長は、すでに2年が経過したが、ようやく物事が動き出した段階にすぎないと話す。

 農業や漁業で日本の食を担ってきた福島。だが、食品の安全性を示そうとの地元の努力も空しく、福島産の海産物や農産物の売れ行きは低調だ。さらに観光客も震災前の4分の1にまで落ち込んだ。

 政府が福島の復興をどうやって達成するもりなのか、皆目分からないと二瓶さんはつぶやく。(c)AFP/Kyoko Hasegawa