【10月22日 AFP】「突然、カダフィ大佐が写っていることに気付いた」──1969年からリビアの最高指導者として独裁支配を続けたムアマル・カダフィ(Moamer Kadhafi)大佐が死の直前に拘束され、重傷を負っているスクープ写真を発信したAFP通信のカメラマン、フィリップ・ディスマス(Philippe Desmazes)氏(51)が1年前を振り返る。

 2011年10月20日、カダフィ大佐の出身地であるリビア中部シルト(Sirte)は、42年間続いたカダフィ政権の崩壊が目前に迫ったことを祝う喧騒に包まれていた。ディスマス氏はこの喧騒を後にして、戦闘が続いていた西に向かった。「やみくもに」先を急ぐ反カダフィ派の小型トラックに乗せてもらい、その後、数日前に記事で取り上げた男性看護師の案内で最終目的地のシルト郊外に着いた。

 道路下の干上がった川底に、大きなコンクリート製の下水管が2本見えた。地面にはカダフィ大佐の護衛の遺体が横たわり、その数人は顔を青く塗られていた。1人の護衛は1本の腕を切断され、もう1人は喉をかき切られていた。

「すると突然、十数人の群衆が何か一つのものを見ようと押し合いへしあいしている様子が目に入った。好奇心から近づいてみたが、ほとんど何も見えなかった。群衆は移動したが、押し合ったままで何も見えなかった。わたしは遺体を収容したのだろうと思った。カダフィ大佐が頭をよぎったが当然、確信はなかった」

 その時「カダフィ、カダフィ」と叫ぶ声が響いた。群衆はコンクリートの下水管を指差していた。長年、独裁者として君臨したカダフィ大佐の最後の潜伏先だった。


■動画が「本物」と確信


「わたしは膝をついて何かをのぞきこんでいる群衆の1人の肩をどかすようにして割り込んだ」。ディスマス氏は回想を続ける。「すると群衆の真ん中に、使い古された旧式の携帯電話を持った男性がいて、みんなに短い動画を見せていた。『カメラの動きが早過ぎて写っているものが分からない』と言われそうな動画だった」。しかし「突然、カダフィ大佐が写っていることに気づいた。ごく短い時間だった」

 ディスマス氏は携帯電話を持っていた男性に、もう1度動画を再生してくれと頼んだ。そして動画からカダフィ大佐の写真を4枚撮影。光が強過ぎ、動画の撮影スピードも速すぎたが、「2枚はよく撮れた」という。自分が着用していた防弾チョッキが邪魔だったが、どうにか撮影した。

 顔が血まみれになったカダフィ大佐の動画が本物だとほぼ確信したディスマス氏は、この負傷者についてさらに情報を得るためシルト市内の主要病院へ向かった。

「あの時点では、自分が(動画から)撮影した写真がカダフィ大佐の拘束を意味していたという重要性が分からなかった。もし拘束時にカメラマンがいたら、わたしの写真には価値がなかっただろう」。この時、ディスマス氏の衛星電話は壊れており、世界から断絶された状態にあった。

 その日の午後、反カダフィ派の戦闘員がカダフィ大佐の金色の銃を手にする姿などを追加撮影した後、ディスマス氏はようやく歴史的な写真をAFP通信に送信した。カダフィ大佐の写真は、検証を経て配信された。

「夜、宿泊先で電子メールを開けて初めて、わたしは(自分が撮影した)写真の重要性をやっと理解した。200通余りのメールが届いていた」。ディスマス氏が西部ミスラタ(Misrata)の青果業者の冷蔵室で、カダフィ大佐の遺体を撮影したのは翌日だった。

 ディスマス氏は今日に至るまで、カダフィ大佐の死をめぐる「謎」について疑問を抱いている。新政権側が主張するように、カダフィ大佐は激しい銃撃戦の末に殺害されたのか。それとも一部メディアの報道や目撃証言のように、反カダフィ派は大佐を生きたまま拘束したのか。

 人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチ(Human Rights WatchHRW)は16日、民兵の関与を裏付ける新たな証拠を入手したと発表した。HRWでは反カダフィ派の戦闘員が携帯電話で撮影した複数の動画を集めたという。それらの動画によると大佐は拘束当時生きていたが、頭部の傷から大量出血していた。また民兵たちに大佐が激しく暴行され、臀部(でんぶ)を銃剣で刺されている映像もあったという。

 カダフィ大佐は昨年8月23日、反カダフィ派が首都トリポリ(Tripli)の政権中枢バーブ・アジジャ(Bab al-Aziziya)地区を制圧したことを受けて逃亡。その後、死亡が確認されるまでの間、息子たちと併せて何度も死亡説が流れた。カダフィ大佐の死から3日後、暫定政権はリビア全土の「解放」を宣言した。(c)AFP/Delphine THOUVENOT