【8月27日 AFP】黒装束に必殺の武器を携え、煙の中に姿を隠す――川上仁一(Jinichi Kawakami)さん(63)は、そのような典型的な忍者のイメージにはそぐわないかもしれないが、日本で最後の忍者と呼ばれる人物だ。

 およそ500年前までその歴史をさかのぼることのできる甲賀流伴党の21代宗家である川上さんは、現代に生きる最後の忍者と呼ばれている。

   「実技を含め、(江戸時代に成立した)修業形態を直接そのまま学んだ者はおそらく他にいないから(最後の忍者と)言われているんだと思います」と、川上さんは語る。

   「忍者なんてもういないです。世界中にいないです」と川上さんは、かつて主君のために情報活動や破壊工作を行う際に忍者たちが使用した道具や技術を披露しながら語った。

 今では、それら忍術も、創作の中に登場するか、伊賀市の広報活動に用いられるくらいだ。

 川上さんは10年前から忍術の教育を始めた。忍者の歴史は謎が多いと川上さんは言う。

   「道具など描いてあるのが残っているが、細かく全部残っているわけではない。口伝が多い。口伝を学んできているわけだから、それもどこかで変わっているか分からないんです。伝承が本当にそうなのか実験することができないものもある。殺人とか毒薬はダメでしょ。これとこれを混ぜると、こんな毒ができると言われていて、物は作ることはできても試すことはできない」

■「生存技術」としての忍術

 川上さんは6歳のころに、謎めいた忍者の世界に出会った。20代目の石田正蔵(Masazo Ishida)さんに出会った当時の記憶はおぼろげだが、初めて出会ったとき石田さんは僧侶(雲水)の姿だったという。

 川上さんは、自分が何をやっているか分からないまま訓練を続けた。それが忍術であることを知ったのはずいぶん後のことだった。

 訓練は身体訓練から精神的な技術、化学物質や気象、心理学の学習にまで及んだ。忍術はもともと戦争・奇襲のための技術だったが、「私は『総合生存技術』と言っているんです」と川上さん。「意識を統一するのに、ろうそくをみつめるんです。芯を見て、中に入り込んでいるという感覚が得られるまで。音を聞くのに針を落とすんです」

 川上さんは壁を上り、高所から飛び降り、爆発物や煙を作るための化学薬品の調合を学んだ。

  「暑さ、寒さにも耐えないといけなかった。苦痛とかもあるし、空腹にも耐える。全部がしんどいし、痛いです。面白くない。ままぁなんとなく。深く考えなかったなぁ……。修業のやり方が生活の一部に組み込まれたようになっていたんです」

 周囲からは「変わった子」と見られたが、誰もが生きることに必死だった終戦間もない時代の中では特に注目されることもなかったという。

 川上さんは、19歳になる少し前に、石田正蔵さんから宗家の名を継承し、巻物や道具などを渡された。

 川上さん本人は「最後の忍者」と名乗らないようにしている。忍術にはさまざまな流派があり、どの流派が正統なのかをめぐって疑義を呈する者や自分こそが正統であると主張する者も、ときにいる。

■まつげに止まって死を逃れる

 川上さんによると、忍術の極意は腕力ではなく、人の隙を突くことにある。

   「人間は、ずっと緊張していられないんです。必ずぬけるときがある。そこをねらう」「基本は虚を突く。なかったら作り出す」

 忍者は、より強大な敵、より大勢の敵の目を盗むために人の弱点を利用する。ごく小さな物体の背後に身を隠すことも可能だという。

 ようじを投げれば、人びとはその方向に目を向ける。そこに逃走のチャンスが生まれるのだ。「まつげに止まって死を逃れるといって、近いけれど見えないということもある」

 最近、三重大学(Mie University)で忍者の歴史の研究を始めた川上さんは、伊賀市の伊賀流忍者博物館(Iga-ryu Ninja Museum)で、隠し階段や隠し戸、床下の刀隠しなどを紹介しながら、自分が最後の忍者になることを受け入れていると語る。

 甲賀流伴党には22代目はいない。川上さんがこれ以上弟子をとらないことを決めたからだ。「この時代にそぐわない。もうそれは無理です」と、川上さんは語った。(c)AFP/Miwa Suzuki