【8月8日 AFP】広島に落とされた原子爆弾で被爆した坪井直(Sunao Tsuboi)さん(87)の顔に今も残る傷跡は、福島第1原発の事故を受けて原子力に対する警戒感が広がる日本に、核の猛威を厳然と突きつける。

 米軍の爆撃機から落とされた1発の爆弾は焦熱で一瞬にして人々を焼き、さらに放射能によってその後何日も何か月もかけて約14万人の命を奪った。核の時代の到来だった。

 それから70年近くが過ぎ、人類史上初の核攻撃を生き延びた人々の数は減りつつある。その1人である坪井さんは今、2011年3月11日の東日本大震災の余波に揺れる日本で、原発反対の声を上げている。

■福島は「第3の核爆弾」、共通する願い

 福島の原発事故で被災した人々について坪井さんは、「核被害者という意味では同じ」と言う。1945年8月6日、原爆の閃光が広島を飲み込んだ時、坪井さんは通学途中だった。火傷に加え、放射線被ばくが原因とみられる大腸がんにも苦しんできた。

 その坪井さんにとって、核兵器と原子力の脅威にほとんど違いはない。「核は人知の及ばないもの。目の黒いうちに核のない世界をこの目で見たい」

 一時は日本の電力需要の3分の1を担うまでになっていた全国50基の原発は福島の事故後、稼動停止された。国内ではその将来をめぐり激しい論争が交わされ、デモなどの抗議行動に多くの人が不慣れな日本で、反原発の声は高まっている。にもかかわらず政府は、電力不足への懸念から2つの原子炉の再稼働を命じた。

 第2次世界大戦中に広島、長崎の原爆を体験した人たちは、テレビで見た福島の原発事故の映像に、恐怖の記憶が呼び覚まされたと話す。賀谷美佐子(Misako Katani)さん(82)は、むせび泣きながら「テレビを見て、あの恐ろしい光景がよみがえってきました」と語った。

 福島原発の事故で死者が出た記録はない。しかし避難した人たちや、廃炉作業に当たる作業員など現地に残っている人たちへの長期的な影響が懸念されている。

 6日、広島で開かれた平和記念式典に出席した福島県のサトウ・サチコさんは、こう述べた。「私たちは広島や長崎の被爆者と悲しみを共有できると思っています。私の中では、広島、長崎につぐ第3の核爆弾を福島に落とされたと思っています」

 原爆生存者の箕牧智之(Toshiyuki Mimaki)さん(70)も、「さらなる被ばく者を作らないよう、われわれも福島の皆さんと力を合わせていきたい」と呼応する。

■被爆者ゆえの葛藤も

 しかし、高齢となった被爆者の中には、1945年と2011年の2つの「被ばく」の間に共通点はほとんどないと考える人もいる。広島で被爆した米倉繁二(Shigeji Yonekura)さん(79)はその1人だ。「わしらが経験したことは比較にならん。原爆は戦争中に落とされ、誰も助けてくれんかった。福島は平時に起きたし、皆が助けてくれている」

 被爆体験にもかかわらず米倉さんは、資源の乏しい日本には原子力を完全に捨て去ることは不可能だろうとあきらめている。「核は、必要悪かもしれんのう」

 一方で、死者7万人を出した長崎の原爆生存者、城臺美弥子(Miyako Jodai)さんのように、福島の事故とその後の危機対応を見て、原子力エネルギーに反対するようになった例もある。福島第1原発事故に関する複数の報告書は政府と東京電力(Tepco)を厳しく批判し、国会事故調査委員会は「人災」だと断罪した。

「原発は安全だから核の平和利用は受け入れるべきだと思ってきましたけど、あの事故や政府のその後の対応を見て、裏切られた気がしました」と、城臺さんは話している。(c)AFP/Shingo Ito