【7月2日 AFP】(一部更新)西アフリカ・マリの首都バマコ(Bamako)から約1000キロ北、サハラ(Sahara)砂漠の端にある伝説の砂漠都市トンブクトゥ(Timbuktu)はかつて、イスラム世界の「知の都」だった。「333聖人の町」「砂漠の真珠」などの異名を持つ町の名は、「辺境の地」を指す代名詞でもある。1998年に国連教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産に登録され、人気の観光スポットとなっていた。

 しかし2011年、外国人3人が誘拐され1人が殺害される事件が起きて以降、観光客の姿はめっきり減った。今年3月には町を囲むように、イスラム系反政府勢力「アンサール・ディーン(Ansar Dine)」の旗が立てられた。

 古(いにしえ)の交易拠点として多民族が行き交い、数々の知が集結した砂漠都市の栄光の面影は、今のトンブクトゥからは消え失せてしまった。女性たちはベールとズボンの着用を強要され、厳格なイスラム法に背いた者はむち打ち刑に処せられている。

 こうしたなか、ユネスコは今年6月、イスラム強硬勢力に掌握されたトンブクトゥを「危機遺産リスト(World Heritage in Danger)」に登録した。

■伝説の黄金都市

 伝説の都市トンブクトゥが騒乱に巻き込まれたのは、歴史上初めてではない。

 この町は5~11世紀、トゥアレグ(Tuareg)人の砂漠の遊牧民らによって築かれた。やがてアフリカの北と西、南を結ぶ交通の要衝となり、黒人やベルベル人、アラブ人、トゥアレグ遊牧民たちが行き交う人種のるつぼになった。

 金、塩、象牙、書籍の交易で栄え、西アフリカで最も裕福な地域となったトンブクトゥには、アフリカ中から学者や技師、建築家らが集まり、14世紀までにイスラム文化の一大中心地に成長した。当時のサンコーレ大学(University of Sankore)にはおよそ2万5000人もの学生がいたとされる。

 トンブクトゥがその名を世界にとどろかせたのは1324年、マリ帝国の皇帝マンサ・ムーサ(Mansa Mussa、1307年~1332年)がメッカ(Mecca)を巡礼したときだ。皇帝はエジプト・カイロ(Cairo)経由でメッカに向かったが、その際、人夫6万人にそれぞれ3キロずつの黄金を運ばせていた。皇帝は、その黄金は全てトンブクトゥで入手したと語ったという。

 ユネスコによると、この膨大な金の流入が原因でエジプトの通貨は下落し、トンブクトゥはアフリカの謎の黄金都市として地図に載るようになったという。

 トンブクトゥは「辺境の地」を指す代名詞にもなった。はるか遠く、存在するかどうかも分からない場所を指す慣用表現として、「ここからトンブクトゥまで」という言い回しも生まれた。

 巡礼から帰ったムーサ皇帝はトンブクトゥの3大モスクの1つ、ジンガリベリ・モスク(Mosque of Djingareyber)を建造した。ジンガリベリ・モスクは700年が過ぎた今も現存している。

 西アフリカ全域を最大版図とするマリ帝国(1230年~1600年)の至宝だったトンブクトゥはその後、トゥアレグ人の支配を経て、歴史上最大のイスラム帝国の1つ、ソンガイ帝国の領土に組み込まれた。

■「知の中心地」から「歴史遺産」へ

 知的活動は隆盛を誇った。数学から化学、物理学、天文学、医学、地理学までを網羅したサハラ以南アフリカの黄金時代は、数十万点の手書き史料にその足跡を残している。

 だが1591年、攻め入ってきたモロッコの軍勢が略奪をはたらき、図書館に火を放ち、学者たちを殺した。以降、知的活動は衰退して行った。

 一方、これらの知的遺産や歴史的建造物、そして伝説の数々は、多くの人々をトンブクトゥへと誘った。何人もの探検家が伝説の町を目指し、挫折した。英スコットランド(Scotland)出身の医師ムンゴ・パーク(Mungo Park)の探検隊は道半ばで本人以外の全員が死亡し、唯一残ったパーク氏も1805年、ニジェール(Niger)川を単独航行中に帰らぬ人となった。

 その20年後、仏パリ(Paris)の地理学協会のチームは、初めてトンブクトゥにたどり着き、その体験を生きて語れる欧州出身者を求め、懸賞金を呼び掛けたという。

 このような豊かな歴史を持つトンブクトゥだが、現在は貧困に苦しみ、若者の失業率が高い町で、砂漠の砂に飲み込まれつつある。(c)AFP