【4月6日 AFP】宮城県の小さな漁師町・南三陸(Minamisanriku)町と、地球の裏側にある南米チリ――広大な太平洋を隔てて1万7000キロも離れたこの2つの地は、モアイ像という絆でつながれている。

 神秘的な笑みをたたえて南三陸の町民たちを20年間見守ってきた石像は、1960年のチリ地震からの復興を願い、チリ共和国との友好を記念して同町が設置したものだ。像が設置された広場は、通称「チリ広場」として町の人々に親しまれてきた。

 だが前年3月の東日本大震災で町が巨大津波に飲み込まれたとき、モアイ像も被災し、高さ2メートルの頭部が落下してしまった。

 約1万9000人が犠牲となった震災では、風光明媚(めいび)な海岸線で知られた南三陸町のインフラは破壊され、産業拠点の多くが津波に押し流された。あれから1年が経過し、町の再建が徐々に進むなか、住民たちの心の支えとなり、未来への希望となっているのが、モアイ像だ。

 震災後、チリ広場でがれきを片付けていた住民たちは、無傷で残っていたモアイ像の頭部を発見、地元の志津川高校(Shizugawa High School)に保管した。

 モアイ像は現在、登下校する同校の生徒たちを日々見守っている。同校に通うヤマウチ・ナナさん(17)は、モアイ像のない南三陸町を知らないと言う。「小さいときから町にあって、ずっと何だろうと思っていた。でも今は大事なものだと分かりました」

■チリ地震津波が結んだ縁

 南三陸町とチリを結ぶモアイの縁は、1960年までさかのぼる。この年、チリはマグニチュード(M)9.5の大地震に見舞われ、1600人超の人々が犠牲となり、約200万人が家を失った。

 この地震は太平洋を隔てた日本にも津波被害をもたらし、142人の犠牲者を出した。南三陸町でも41人が亡くなった。

 それから30年後、ともにチリ地震で被災した町と国の復興を記念して、駐日本チリ大使が南三陸町を訪問。両者の交流が始まり、南三陸町はモアイ像を海岸沿いの広場に設置することになったのだ。

■「モアイグッズ」で町を再建

 志津川高の生徒たちは今、町の再建費用の確保にこのモアイ像を役立てようと考えている。

 その試みの1つが、モアイ像をデザインしたバッジやアクセサリーを販売し、売上げをコミュニティーバス購入費に充てるプロジェクトだ。「町にはおじいちゃんとかおばあちゃんとかいっぱいいるので。でも移動が大変。今のバスは本数も少ないし、長い時間待つ場所もあんまりないし」と、前出のヤマウチさん。高校生らは、公共交通サービスによってお年寄りの生活がより良くなることを願っている。

 ヤマウチさんたちはまた、あんこやカスタードクリームの入った「モアイ焼き」の開発・商品化にも力を入れている。

 志津川高の茂木安徳(Yasunori Mogi)先生によれば、モアイ像を通じた再建資金調達プロジェクトが、雇用の限られた南三陸の生徒たちにとって貴重な経験となっているという。「次世代を担う子どもたちが町に残れるようでないと、本当の復興にはならないですから」 「子どもたちも、このプロジェクトをやることの意義は分かっているようです。キャラクターのデザインも子どもたちがやっています。1つ1つ手作りで。南三陸への想いが詰まっているんです」(茂木先生)

■チリ大統領も「モアイグッズ」に感銘

 佐藤仁(Jin Sato)町長も、こう話す。「町民もみんなモアイに親しみを持っていた。復興のシンボルだ」

 前週には、訪日したチリのセバスティアン・ピニェラ(Sebastian Pinera)大統領が、多忙なスケジュールの合間を縫って南三陸町を訪れ、被災状況を視察。その際、チリ代表団はこぞってモアイグッズを身に着けていた。

 ピニェラ大統領は胸に着けたモアイ像のスチール製バッジを指さし、「これは未来への希望のシンボルだ」とAFP記者に語った。「地震と津波で壊滅的な被害を受けたこの町で、今も信念と勇気が息づいていることが見られて嬉しい」

 南三陸町の人々に非常に感銘を受けたピニェラ大統領は「より大きくて、壮大で、美しい」新たなモアイ像を寄贈すると約束した。今回はレプリカではなく、本物のモアイ像が太平洋を渡ることになるという。(c)AFP/Harumi Ozawa