【8月19日 AFP】1991年8月19日、旧ソビエト連邦ロシア共和国大統領だった故ボリス・エリツィン(Boris Yeltsin)は、改革路線に反対するソ連共産党守旧派が起こしたクーデターを阻止する賭けに出たが、この時、黎明期のインターネットが自分に勝ち目をもたらしたことに気づいていなかった。

 改革派だったエリツィンは即刻、声明を発表して守旧派のクーデターを「憲法違反」だと非難し、国民に抵抗を呼び掛けたが、それが功を奏したのは、彼の声が届いてのことだった。

 副大統領や主要閣僚、旧ソ連国家保安委員会(KGB)議長といった政府要人たちによるクーデター計画は周到だった。放送局はすべて占拠され、新聞社は閉鎖され、情報は完全にクーデター勢力の統制下に置かれたように見えた。

 しかし、そこにKGBでさえもまだ接続の仕方を知らず、エリツィンに至っては聞いたこともない通信手段の抜け穴があった。専門家たちが取り組んでいたソ連初の電子メール・システム、「RelCom」だった。

 RelComのプロジェクト責任者だったマリア・ステパーノワ(Maria Stepanova)さんは、クーデターから数か月後に、エリツィン自身に声明の「電子版」を見せながら説明した時の様子を回想する。エリツィンは「新聞もラジオもテレビも機能していなかった。それでも国民は(自分の声明を)知っていた。君たちのおかげだったのか!」と驚いたという。

■歴史の行く手を変えた偶然の「発見」

 クーデター勢力が統制したつもりになっていた情報は、モスクワ郊外にある原子力研究施設、クルチャトフ研究所(Kurchatov Institute)から流れていた。

 ここでは1万人に及ぶ科学者や数学者のチームが秘密裡の研究を行っていたが、ソ連初の民間用コンピュータ・ネットワークとして開発されたのが「RelCom」だった。91年当時はまだこの研究所と、連邦に属する各共和国政府など3000程度のユーザーをつなぐものでしかなかった。

「発見」があったのは前年、1990年だった。コンピュータ・ファイルを電話回線でフィンランドへ送信しようとしたところ、このひとつの接続から、インターネット前夜の国際的な電子掲示板ネットワーク、UseNet(ユーズネット)へ流れてしまったのだ。ステパーノワさんら科学者たちは意外な展開に興奮した。そして翌年、クーデターが起きた時、これを利用して歴史の行く手を変えた。「何か重要なことが起きたことは分かった。それを皆に知らせなくてはと思った」

「おそらく私たちのネットワークを利用する誰かが、まずファックスでエリツィンの声明を受け取り、それをネットワーク上に投稿したのでしょう」。RelComは国際ネットワークにつながる「ゲート」を開き、「目撃情報」といったタイトルでRelCom上に押し寄せてきた投稿を逐一、UseNetへ転送した。現在の中東革命でツイッター(Twitter)が似た役割を果たす20年前だった。

 この行為にリスクがなかったわけではない。西側のテレビが情報源を明かしてしまったことがあり、RelComでは戦々恐々としていた。しかし、ステパーノワさんいわく「それは二度と起きなかったのです」

 KGBが何故、RelComのチームを解散させたり、メンバーを逮捕しようとしなかったのかは大きな謎だ。

 ステパーノワさんの記憶では、クーデターの数週間前にKGB職員が、チームのオフィスにやって来た。「KGBは疑ってはいたと思う。私たちが国際電話に関係する何かをしていることは把握していた」。しかし、「モデム」と呼ばれる「小さな箱」が目に入っても、その役割を理解せずに立ち去ったという。

 あの日、ステパーノワさんは夏期休暇を過ごすために、車でモスクワから出たところで、ソ連軍戦車の縦隊に出くわした。

 息子に「夏休みの計画は取り消し」だと告げると、RelComのオフィスへ舞い戻り、それから丸3日間、ソ連情勢に関する情報を探し求める世界に向けて、何万通ものメールを中継し続けた。「自分たちがしていることが、これほど重要だったとはその時は思わなかった。ただ、私たちもみんな、(起きていることに)参加したかったのです」(c)AFP/Dmitry Zaks