【3月15日 AFP】日本社会の特徴として知られる和を重んじる姿勢は、最も厳しい状況下でさえ明確に発揮されている――巨大地震と大津波に打ちひしがれた生存者たちが集う緊急避難所だ。

 ボランティアたちの仕事の分かち合いから、避難所の生活ゾーンの外にきちんと並べられた靴まで、11日の震災後に急設された避難所での暮らしは、母なる自然がもたらしたその天災とはまるで異なり、整然として平和でさえある。
 
 東京に留学中、仙台市へ遊びに行く途中で震災に遭ったカナダ・トロント(Toronto)出身の学生ジョボン・エバンスさん(24)は、「災害に遭ったことはなかったから、どうなるのか見当もつかなかった。映画ではよく悲鳴をあげて逃げ回る人が出てくるけれど、この避難所はまったく落ち着いている」と感想を述べた。マグニチュード(M)9.0の地震と津波が襲いかかった時、エバンスさんは友人6人と列車に乗っていた。「(列車が)ひっくり返る、と思いました」。旅の予定は大きく変わった。震災の日以来、友人たちと仙台郊外の名取(Natori)市の地域センターで寝泊まりしている。英ロンドンから来たアリス・キャフィンさん(21)もその1人だ。

 キャフィンさんは見知らぬ人が親切なことと、地元自治体の目立った助けがなくても、被災地の住民が比較的容易に緊急事態に対する活動を立ち上げたことに感嘆する。「見ての通り、とても落ち着いている。みんな、私たちにとても優しいんです」。14日、短時間発令された津波警報で、住民たちと急いで向かった丘の上から被災地を見下ろし、キャフィンさんは語った。「避難所でわたしたちの横に座っている、年配の女性たちがいるんです。地元の人たち。彼女たちは立って戻ってくるたびに、わたしたちにも食べ物をくれるんですよ」

 別の避難所となっている仙台市内の中学校の体育館でも、こうした分け隔てのない協調と、落ち着いた態度がそこかしこで見られた。地元企業の経営者が物資を寄付すると思えば、ボランティアたちは飲料水ポンプの作業を買って出ていた。路上では、灯油缶を持って配給に並ぶ人びとも整然としていた。地震と津波の二重災害に見舞われて以来、東北地方一帯で灯油は不足しており、需要は逼迫(ひっぱく)しているにもかかわらずだ。

 こうしたエピソードは、避難所からほど遠くない場所で壊滅してしまった街や倒壊した家、転覆したままの車、水の底に沈んだ田畑の光景とは非常に対照的だ。

 キャフィンさんやエバンスさんの友人グループは、13キロ先の仙台市まで歩いて被災地から脱出する計画を立てている。けれど、温かい地元の人たちに受けた恩はいつまでも忘れないと、東京の国際基督教大学(International Christian University)で学ぶキャフィンさんは言う。「救援物資がなかなか来ない避難所もあったそうです。わたしたちはとてもラッキーだったと思う。ここは安息の地のようでした」

(c)AFP/Kelly Macnamara

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